- 中沢 努
- パンセ・ソバージュ・アンド・カンパニー 代表
- 東京都
- コンサルタント・研修講師・講演講師
対象:人材育成
学校で行われる授業を見学する機会があったので、出かけてみた。
生徒たちは義務教育中の身であり、大学生のようなすれた感じはなく、ある種の純粋さを感じさせる年代だった。
先生が質問し、生徒が手をあげた。
指名された生徒が発言し、質問が終わる。
次々と質問が繰り出され、その度ごとに大勢の生徒が手をあげる。
その中で一度も手をあげない生徒がいた。
私はその生徒に注目し、観察した。
その生徒は自分の中で何かをじっと考えているようだった。
他の生徒の発表を聞き、それを思考のザルに放り込み、自分の手で揺すり、「かんがえる」という作業の純度を高めているように見えた。
ある時はうなずき、ある時は首をかしげ、ある時は天井を仰ぎ見ていた。
そしてある瞬間、その生徒の表情が一変した。
目が丸くなり、口が丸くなった。
そして小さな体全体から光を発したのである。
「あっそうか!」「わかった!」生徒は体全体で無言の叫び声をあげていた。
学びとは気づくことであり、人間の内部で起こる心的作用である。
心的作用は見えることもあり、見えにくいが注意すればかろうじて見えることもあり、本人の内面だけで起こり終わり見えない場合もある。
しかし、そのいずれであっても本人は学んでいるのである。
翻って、いまの学校教育はどうか?
…手をあげる回数や発表の有無で優劣がつき、それ以上のものを見きれていないのではないか?
翻って、いまの家庭における教育の受け止め方はどうか?
…子供が持ち帰ってきたテストの点数が悪いとダメだと思い、いたずらに「ちゃんとやれ」ということに終始しているのではないか?
翻って、いまの企業内教育はどうか?
…お金をかけているのだからその効果を可視化せねばならないと思い込み、その基準から漏れた人を「学んでいない」と見なしていないだろうか?
私は、「やったことをきちんと測定する」という立場をとることは悪いことではないと考える。
私は、基準を設定しそれを用いて「できた人とできなかった人を選り分ける」という立場をとることも悪いことではないと考える。
私は、教育に費やす金銭を投資とみなし、それを「費用対効果」として捉える立場をとることも悪いことではないと考える。
しかし、「結果が見えない」ということと「学ぶ/学ばない」ということは別物です。
学ぶという行為は極めて主観的ものであり、個人の内面の奥底で蠢く微細なものであり、本来的には他人がとやかく言うものではないのです。
悪いのは、このような「学びの神秘」に気づかず/知らず/理解せず、世間に漂う「見えないのだから『学んでいない』と見なして何が悪い」という見方を「本当にそうだろうか?」と疑わず、実際そう思い込み、見えないものを見ようと意志していないことであると私は考えるのです。
(中沢努「思考のための習作」から抜粋)
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