歴史で覚える日本の生命保険2 - 保険設計・保険見直し全般 - 専門家プロファイル

田中 香津奈
かづなFP社労士事務所/株式会社フェリーチェプラン 代表取締役
東京都
CFP・社会保険労務士

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対象:保険設計・保険見直し

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歴史で覚える日本の生命保険2

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かづな先生の新保険ゼミ 10.日本の生命保険の歴史

大正3(1914)年に第一次大戦が起りましたが、わが国は直接に戦禍を受けず、むしろ物資補給国として、経済は活性化してきました。この時期にわが国の資本主義経済も一応の基礎を固め、生命保険事業も大きく成長したのです。一方、資本主義の発達とともに、社会運動が盛んに行われ、政府としても労働者の福祉対策を考える必要に迫られました。
すでに、明治の末から検討されていたことでしたが、大正3(1914)年に当時の大隈内閣が、社会政策のひとつとして、小口の生命保険を官営によって提供する方針を決定し、逓信省が運営に当たることとなりました。この保険は、外国の簡易保険に範を取ったもので、無診査・月払いの契約で、最高保険金額を250円という低額に限定したのです。

大正時代、保険の有用性を人々に認識させる大きな出来事が2つありました。1つ目は大正7(1918)年のスペインかぜの大流行、2つ目は大正12(1923)年の関東大震災。スペインかぜでは、22万人を超える犠牲者が出ました。続いて、関東大震災では、東京府・神奈川県を中心とする1府4県下で、焼失・家屋倒壊は約60万戸、支社10万人に及び、大震災による全社の支払い保険金は約5,600件、700万円余にのぼったのです。スペインかぜや関東大震災に際して、生命保険会社が多額の保険金を支払い、その使命を果たしたことで、生命保険の必要性とその役割が新たに認識されたため、その後生命保険契約高は一段と伸展しました。

大正末期になって、生命保険会社の間で新契約獲得競争にさらに拍車がかかりました。
従来、全国各地の代理店を通じて、生命保険契約の募集を行っていた多くの会社は、その営業組織を強化するため、代理店に所属していた営業職員を会社直属に改めるとともに、会社専属の営業職員制度に変更しました。そして、これが生命保険の普及に役立ちましたが、一方会社の競争は激化していったのです。

この頃から、明治・帝国・日本・第一・千代田生命の5社への契約の集中傾向が強まり、昭和5(1930)年には新契約高で54%の占有率、保有契約高で51%を占めるようになりました。その後も業界戦争は激化し、不正な募集活動によって世間の批判を浴びるようになりました。このため、昭和6(1931)年に商工省令によって、保険募集取締規則が施行されることになったのです。
また、保有契約の増大に伴い、生命保険会社の資産も増大し、金融機関としての地位も高まり、昭和10(1935)年末には全金融機関の10%の資金量を占めるまでなりました。これは全国銀行、政府の資金運用部に次ぐ規模のものです。

日本における保険種類の歴史的推移を保有契約高で見ると、最初は「終身保険」が大半を占めていましたが、だんだんと「終身保険」が減少して「養老保険」が保険契約の主流を占めるようになりました。その理由として、3つ挙げられます。

▲家族制度や家業の世襲制を中心とする生活保障制度や封建的な慣習やものの考え方が強く残っており、独立した近代市民としての生活と思想が確立されていなかったこと
▲死に対する因習縁起が残っていて、死亡保障について割り切った考え方が持ちにくかったこと
▲伝統的に貯蓄思想が強かったこと

さらに保険会社として、これらの考え方に対応して理解されやすい「養老保険」に主力をおいた募集政策を採っていたことも、一つの要因と考えられています。

昭和16(1941)年、第二次大戦に突入するに伴い、あらゆる産業、金融、教育機関などはすべて厳しい戦時体制下におかれました。生命保険会社も大量の国債引受や、軍事産業への投資を強いられることとなったのです。
また、政府は戦時財政上、統制経済を強化するとともに、消費を抑えるために“国民貯蓄奨励運動”を行いましたが、“国民貯蓄は生命保険から”などのスローガンのもとに生命保険会社も政府に協力していったのです。

昭和20(1945)年8月15日、日本は無条件降伏をして、第二次世界大戦は終了しました。
敗戦後の経済インフレーションは、急速に進み、生命保険会社も大きな痛手を受けたのです。
敗戦後の復興プロセスとして、銀行・信託・証券・保険問わず、大蔵省の行政指導の下で、全く同一の金融商品・サービスを販売することとなりました。その結果として、金融商品・サービスを比較するという発想が生じず、代理店は乗合ではなく、一社専属になりました。

敗戦による国民所得の低下により、保険料負担能力は弱まり、年払、半年払に限っていた民間の生命保険会社の新契約は著しく低下していきました。 こういった状況の中で、小口の集金を伴う月払いの生命保険は、戦前、簡易生命保険法により官営の独占事業とされていましたが、昭和21(1946)年に同法が改正され、民間の生命保険会社でも取り扱うことができるようになりました。

昭和24(1949)年以降、多くの保険会社がこの分野に進出して、再建の第一歩を踏み出したのです。
この月払保険では、営業職員が一定の担当地区を持ち、その地区内の新契約の募集と募金活動を並行して行うデビット・システムと呼ばれる方法が導入されました。この導入に伴い、新たに女性を中心とした営業職員が大量に採用され、家庭訪問という活動が女性に向いていたこと、また戦争復興期で男性が求人難であったことが理由と言われています。
そして、今日の生保レディのベースが出来上がっていきました。「数は力である」という経営者の信念の元、生保レディの大量採用という人海戦術が主流になったのです。



(2005.7.24&31公開 2015.10.29更新)

 

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