自然の流れを塞ぐもの
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水というものは高い所から低い所に流れます。
そして、低い所にある水と一緒になって、どちらが高い水で低い水かというような区別も無くなります。
これが自然の流れなのですから、当然のことながら物が多い所から少ない所へ流れていくものなのですよね。
ですが、実際の世の中ではそうなっていません。
どうしてかと言うと、エゴが水路を塞いでしまっているからです。
仏教では布施と言いますが、「誰かにあげるなんてもったいない!」と、何か損をしたような気になるような気持ちになるのがエゴなんです。
常に損得を計算し、得をすればはしゃぎ回り、損をすれば落ち込み…。
エゴが強い内は心穏やかに過ごすことは出来ません。
「やっぱり誰かのために尽くそう!」とボランティアなどをしたとします。
ですが、そこにも自分の生きがいというエゴの落とし穴があります。
ボランティアが悪いと言っているわけではありません。
ただ、施す側、施される側がいるということは、「してあげた」側と「してもらった」側というように分かれます。
そこに高慢と卑下の気持ちも出てきてしまうわけですね。
「自分」という存在がある限り、それは無くなることはありません。
その自分を無くしていかなければならないのですね。
自分を無くすといっても、自分がいなくなるわけではありません。
「本来、自分なんていうものは無い!」
ということを知る必要があるのだと思います。
道を歩いていて足がもつれて転んで手をケガしたとしましょう。
ですが、手は足に文句を言って怒ったりしませんよね?
それどころか、膝を擦りむいていれば、自らの手で手当てをするでしょう。
それが自然な流れです。
手は足に対して「お前のせいでケガをしたじゃないか!」と怒ることはありません。
「俺が手当てしてやったんだ!」というような自分というものもありません。
縁起を知れば自分なんていうものは無いということがわかります。
その時に始めて、施すことも施されることも無いということになるのです。
エゴが薄くなれば平穏に生きていけます。
「自分が損をする」というような気持ちも薄くなり、「自分がしてあげた」というような気持ちも無くなる…。
もちろん一朝一夕で出来るようなものではありません。
そのことを知り、常に心に留めている必要があります。
だからこそ、善に触れ続けていくということが大切になってくるわけです。
仏教というものは自分を抑圧するものでも制限するものでもありません。
知れば知る程に自由になり、心豊かに暮らしていけるようになるものなんですね。
本当の自由を得るために、自分は無いということを心に留めていきたいものです。
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