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私の履歴書から生き方を学ぶ(営業畑からアサヒビール社長として活躍した福地茂雄氏)

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 日経新聞の私の履歴書は自叙伝として多くの読者に親しまれている。私は学生時代からの読者で友人の結婚式や朝礼に活用した。経済人の場合は経済史、産業史になる。今回ご紹介するアサヒグループホールディングス相談役福地茂雄氏は派手な振る舞いこそないが、この人の生き方を学び実践すれば大成功は保証できないが、失敗はしないと思い取り上げた。福地さんは入社後長く営業畑で過ごし社長まで登りつめたが、就活中の学生の皆様にとっても参考になると思う。

1.私の履歴書の中で見る、福地さんの主な行動様式

1)  前向きな性格。

両親の愛情を独り占めにし、大切にされたせいか、会社に入ってもストレスを持ちこさない、前向きな性格が形成された。→自分自身でも意識的に気持ちの持ち方を変える取り組みが求められる。

2)「ほれられるよりも惚れろ」である。

一生懸命に尽くしても商売が広がらない時がある。その場合「それは惚れ方が足らないからだと」いわれた。→先輩のアドバイスを自分の心にしっかりと刻む。

3)取引先訪問の徹底。

最初の大阪時代は9年間。隅から隅まで回り、285軒の取引先の店舗は今でもよく覚えている。→福地さんの営業の原点といえる行動基準。

4)挨拶だけの訪問ではなく話題を提供する。                                 挨拶だけの営業回りというのはなくいつも「きょうは何の話をしようかなと」考えていた。→読書の習慣を身に着けること、表現することは大切である。

5)営業で成功する際、時には内助の効果がある。

 誰にも当てはまる事ではないが、社内結婚で夫の仕事を理解し応援しようとする妻であれば内助 の功を発揮する可能性がある。

6)部下に何を求めるか、上司としての心構え。 

福地さんは「自分に出来ない事を部下に求めるのは卑怯です。自分に出来ることはしっかりやらせます。」と答えた。すると「君は管理職として落第だな。それだと君のコピーばかりになってしまう。」ずばり言われる。「支店長である私もそうだが、自分の仕事以外のことも見ないといけない。役目上、自分がやれない事も求めなければならないという事だった。

7)支店長の机の前にいすを2つ並べ「遠慮なく相談に来てくれ」と社員に伝えた。          しかし誰も来ない。当たり前だ。気兼ねせずに支店長に話しかける社員などいない。とにかく福地さんから社員の席へ頻繁に出向くようにした。 

8)京都駅前のホテルが運営するビアガーデンがビールをアサヒから他社に変えると言ってきた。対応策?

但し、ビアガーデンの入り口でビールを提供するのはライバル、奥がアサヒという割り振りだ。ところが社員の地道な営業が逆転のきっかけをつかむ。ビアガーデンの店員は先に奥のテーブルにお客さんを誘導し、アサヒが売れるようにしてくれるのだ。2年目はビールを提供する場所を替えられた。今度は逆にアサヒの提供場所近くにお客さんを連れてきてくれる。→あきらめずにねばる。

9)経営理念に従う

勿論しっかりした経営理念を作る事が前提である。発泡酒「本生」を出す時は「いい商品ができたら出そう」と決め、試作品を作った。改造を重ね2001年2月に出荷した。

 

 2.私の履歴書要約(アサヒビール社長就任時まで)

 福地さんは1934年6月生まれ、福岡県戸畑市(現北九州市戸畑区)出身。戸畑は製鉄所や工場が立ち並ぶ街。実家は紙文具店を営み、市役所や地元高校に用紙を納め繁盛していた。興味深いのは母親の教育熱心だったこと、参観日でないのに授業をみに来た。宿題のチェックも徹底した。福地さんは大変な読書家だがこれも母上の指導によるものだ。きっかけは母上から「これを読みなさい」と近松門左衛門の子供向け「国姓爺合戦」を手渡しされて以来で、吉川英治の作品も手当たり次第で読んだという。両親の愛情を独り占めにし、大切にされたせいか、会社に入ってもストレスを持ちこさない、前向きな性格が形成された。

 高校は小倉高校商業科に進学し、商売を学ぼうと考えた。卒業後は実家を継ぐことが当然なことと考えていた。部活は運動が苦手なので文化系。「商業経済研究部」に属し、年2回「エコノミー」という雑誌を発行した。思い出の3人の先生の内、簿記担当の中村先生の影響を強く受けた。先生のアドバイスで先生の母校長崎大学経済学部を受験し合格した。

 真面目な大学生活を過ごした。高校時代は速記部だったので会計学、経済原論の講義ノートは完ぺきだったので人気があった。ゼミは坂口幹生教授の指導を受け、レスリスバーガーの「人間関係論」をまとめた。雑誌部に在籍し年2回「扶揺」という経済の論文集を発行していた。そこに卒論を掲載した。題名は「経営組織における人間の問題」、ゼミで学んだ集大成だ。 4年生に進学し卒業すれば実家の紙文房具店を継ぐつもりだった。父親に相談したところ、一度会社勤めをするよう勧められた。

 就職試験では小野田セメントとアサヒビールを受験し、アサヒビールに合格した。希望の職種、勤務地を聞かれたが、第一は工場の経理、第二は業務、第三は営業、場所は九州、東京、大阪の順とした。ふたを開けてみると「大阪で営業」。見知らぬ土地でのアサヒビール人生が始まった。

 1957年4月会社人生のスタートを切った。配属先は大阪支店販売課。大阪市の生野区と東成区の担当になった。初めは指導役の先輩について得意先をまわった。アサヒビールでは男性なら「ブラザー」、女性なら「シスター」と呼ぶ。福地さんのブラザーは中穣高徳元常務取役営業本部長、松分光朗元副社長だった。中条さんは加熱式のビールの時代に「ビールは生であるべきだ」という考えの持ち主。松分さんからは「ほれられるよりも惚れろ」である。一生懸命に尽くしても商売が広がらない時がある。その場合「それは惚れ方が足らないからだと」いわれた。最初の大阪時代は9年間。285軒の取引先の店舗は今でもよく覚えている。57年のアサヒビールのシェアーは全国で31%。サッポロビールよりは上だったが、トップのキリンビールとの差は広がりつつあった。この頃、サントリーがビール事業に参入。アサヒはサントリーに山本為三郎社長の判断で特約店を開放し競争が更に激化した。 

 入社3年目の1960年に社内結婚した。奥さんの実家が独身寮近くにあり、同僚と食事したり、一緒に通勤して親しくなった。奥さんはさっぱりした性格、会社人生で内助の功を発揮した。大手の酒販店や飲料店のオーナーやその奥さんともすぐ仲良くなり、しょっちゅう奥さんに連絡があった。1980年代後半、樋口廣太郎さんが社長になった頃、ファミリーパーティが良く開かれた。奥さんはよく気が利き座を盛り上げたので「君が営業部長になったらいい」と話をした。逆に樋口さんから怒鳴られてばかりいた。

 1967年に主任になった頃も相変わらず、アサヒを巡る状況は好転しない。そんな時父親から「俺も年を取ったし,家業の紙文具店を継いでくれるか」と電話してきた。お世話になったブラザー達を裏切れない。「負け犬になりたくない」と断り、アサヒで一生働こうと決めた。営業をしていると、新たに取引先がうまれるのが面白い。 大阪十三に「がんこ寿司」 という美味で評判のすし屋があった。担当者と何度も足をはこんでいると「今度2階に店を作るので、アサヒビールを入れてあげるよ。」と大きな注文を頂いた。がんこフードサービス会長の児島さんは仕事熱心、人の話を聞きながらしっかりとメモを取る。このため挨拶だけの営業回りというのはなくいつも「きょうは何の話をしようかなと」考えていた。今では全国で「酔虎伝」などを運営するマルシェグループの創業者の谷垣忠成さんにもお世話になった。東成区の担当として駈けずり回った頃からの付き合いだ。 

 1957年に入社し、大阪支店に13.5年と長期間在籍した後、「名古屋支店販売2課長を命ずる」との辞令を受けた。名古屋支店に2課はない。新たな販売課を設け、岐阜県と三重県で新規顧客を開拓するという事だった。5人の部下を持つ管理職になった。支店長の本田さんは「君はどういう考えを持って部下に接するか」と尋ねる。 福地さんは「自分に出来ない事を部下に求めるのは卑怯です。自分に出来ることはしっかりやらせます。」と答えた。すると「君は管理職として落第だな。それだと君のコピーばかりになってしまう。」ずばり言われる。「支店長である私もそうだが、自分の仕事以外のことも見ないといけない。役目上、自分がやれない事も求めなければならないという事だった、」得心した。確かにプロ野球チームの監督は全てのポジションンをこなせるわけでない。自分が経験のないところでも一流を求め、育てないとチームは強くならない。名古屋支店長の教えを受けて以来、教え子が師匠よりすぐれた人物になる「出藍の誉れ」を意識し、部下と接しようと思った。 上司としての心構えを教わったのはいいが、名古屋時代の営業はアサヒが人気のある大阪とは勝手が違い苦戦を強いられた。知名度が低く、なかなか売れないのでトラックに大瓶を積んで「置き回り」に励んだ。三重に出張中、部下から「課長、転勤です。」との連絡を受ける。

 わずか10か月で今度は大阪支店販売第二課長を命ぜられた。一課の課長は瀬戸雄三さん。当時は東京一極集中が加速し、西日本に強いアサヒビールのシェアーが じりじりと低下。一方キリンビールは全国シェアー50%を超えていた。キリンは黙っていても売れたが、大型の冷蔵庫が普及していない時代。アサヒの営業は酒屋さんにお願いし、常に冷やしてもらって辛うじて売り上げにつなげる事ができた。大阪はシェアーが高い最重要な市場だ。経験者を戻して、足場を固めようとしたかもしれない。 大阪支店の販売2課長となった担当エリアは大阪でも重要地域の一つである市内北部。 2度目の大阪勤務を終え、1977年に初めて東京本社へ。肩書きは営業部次長。次長職は盲腸みたいな役職で組織の指揮命令系統から外れている。

 全国シェアーで4位に転落しかねない中、81年から京都支店長を命ぜられた。会社は退職希望者を募るなど、リストラを開始。支店長としての初仕事「肩たたき」だ。全社で500人の早期退職者を募り、京都支店でも47人の内3人を出さないといけない。社員と対話し、優遇条件を付けてやめていただく。本当に嫌な仕事だ。ところが早い段階で古参の社員3人が名乗り出てくれた。本当にありがたかった。それにしても初めて支店長になったということでずいぶん肩に力が入っていた。支店長の机の前にいすを2つ並べ「遠慮なく相談に来てくれ」と社員に伝えた。しかし誰も来ない。当たり前だ。気兼ねせずに支店長に話しかける社員などいない。とにかく福地さんから社員の席へ頻繁に出向くようにした。

 支店に溶け込め始めた頃、再び難題が持ち上がる。ビール販売の激戦地といえば、ホテルやデパートの上にあるビアガーデンだが、その一つ、京都駅前のホテルが運営するビアガーデンがビールをアサヒから他社に変えると言ってきたのだ。変更先のビールメーカーはホテルと同じメーンバンクという事情だった。ホテルの大株主にお願いするなど必死のお願いで何とかアサヒも残してもらった。但し、ビアガーデンの入り口でビールを提供するのはライバル、奥がアサヒという割り振りだ。ところが社員の地道な営業が逆転のきっかけをつかむ。ビアガーデンの店員は先に奥のテーブルにお客さんを誘導し、アサヒが売れるようにしてくれるのだ。2年目はビールを提供する場所を替えられた。今度は逆にアサヒの提供場所近くにお客さんを連れてきてくれる。3年目はアサヒ単独に戻すことが出来た。京都駅前の別のビアガーデンで他社への変更の話が出た。そのビアガーデンを運営するホテルの社長が偶然にも当時のアサヒビールの村井勉さんと、一橋大学バレー部の仲間だった。すぐに小倉高校の先輩でもある村井さんに泣きつき、銘柄変更をぎりぎりで防ぐことがきた。一度目は部下に二度目は社長に助けられた。 

1984年9月、営業部長として東京に戻った。相変わらずシェアーはどん底。「えらい時に営業部長になるなあ」というのが正直な感想だった。村井さんはCI改革を打ち出し、「顧客満足の理念の下、全てを変える」という姿勢だった。商品では5000人という大がかりな消費者の味覚調査を敢行。その果実が味やラベルなど全てを刷新、86年に発売した「アサヒ生ビール」(通称コクキレ)だ。同時に「100万人の大試飲作戦」を展開し、福地さんも営業部長として指揮に立った。改革は商品の刷新だけでなく、社員の意識改革を迫るものだった。村井さんはしょっちゅう「本を読め」と言っていた。文字通り読書をしろというのではなく、「若手社員と対話しろ」という意味だった。月一回、大森工場に併設した研修所で社員を集めて、「読書会を」開催、缶ビールを片手に仕事の悩みを聞いたり、会社の課題を議論したりした。一連の改革で販売面でも好調の兆しが見えてきた。コクキレは小売店の受けも良い。スーパードライの大ヒットがアサヒを生き返らせたのは確かだが、再生への土台を作った村井さんの役割も大きかった。社長は1986年に樋口廣太郎さんに交代した。スーパードライが登場したのは翌年のこと。試飲した印象は「これはいける」。完成度は高い。ただ営業現場に長くいたこともあり、様々なお客さんの顔がうかんでくる。「ここまで変えたら、得意先がついてこないのでないかは」という不安も覚えた。発売日は3月17日。営業部長としてうでのみせどころだ。

 ところが想定外の業務命令が下される。3月15日日本能率協会が主催する「米国マーケティング優秀メーカー視察団」への参加だった。この時バドワイザーで有名な世界有数のビールメーカーアンファイザー・ブッシュの訪問だ。20名の幹部を前に近年のアサヒビールの改革を披露した。スピーチでは「単身所帯の増加、画一的な商品に満足できず、消費者は自分自身に最もフィットした商品を必要な時に必要な量だけ購入する時代」。30年近く前だが、今の状況にも重なる。ヒットするかどうかわからないのに「日本人の嗜好の変化がよりキレの良さに移行するという予測のもとに、スーパードライを3月に発売する事になりました」とアピールした。この視察で富士ホールディンングス会長の古森重隆さんとの出会いがあった。

 1987年3月末米国視察から帰国すると状況は一変していた、スーパードライの人気がうなぎ登りで、不足感がでていた。初夏の経営会議で樋口社長は大胆な提言をした。いまから設備投資をすれば、どれだけの増産が可能か。」生産本部長は「50%増はいけます」と答えた。スーパードライの人気はわかるが、まだ海のものとも山のものとも分からない。10%増でも困難だ。ところが88年、生産量に加え、作り方に工夫を加え、前年比70%増を実現。実際はこれ以上売れて、品不足に苦しんだわけで需要は前年の2倍以上あっただろう。これは樋口さんのすごさ。

 数か月して3度目の大阪支店勤務を命ざれた。役職は大阪支店長。大阪は平社員から始まり、主任、課長、次長、支店長になったばかりでなく、労働組合も組合員、代議員、書記長、支部長とすべての役職に就いた。深い縁だ。支店長として朝から忙しい生活を過ごしたが、この時期に取締役大阪支店長に従事したのは幸運だった。89年のアサヒビール創立100周年を発祥の地である大阪のトップを迎えたからだ。大阪支店長の後、91年常務営業本部副本部長、98年末には樋口会長から社長就任を告げられた。アサヒビールは97年にスーパードライがビール出荷量第一位となり、翌年はビール市場でついにキリンビールを抜く。上げ潮の時に社長になった。

  

3.キャリアカウンセラーとしての感想

1)配属部署等の申請 

希望の職種、勤務地を聞かれたが、第一は工場の経理、第二は業務、第三は営業、勤務地は九州、東京、大阪の順とした。ふたを開けてみると「大阪で営業」。見知らぬ土地でのアサヒビール人生が始まった。→職種、勤務地とも第3希望だった。営業職については実家が商売をしており馴染みがあったようにも思うが、勤務地大阪は初めての場所だが持ち前の真面目さで顧客の信頼を得る事が出来、成功の要因になった。若い時は現場で働き、仕事を覚えるよう努める事を勧めたい。

2)会社の経営不振時代の過し方

1962年サントリーはアサヒビールの販売ルートに乗せてもらうことで新規参入を果たした。また1975年以降、シェアー50%以上を保有したキリンビールの一人勝ちがしばらく続いた。それに対してアサヒは販売不振が続き、シェアーは1957年の31%から1984年には10%に低下、サントリーの9%に並んだ。1981年京都支店長のときには支店内で3名のリストラを行った。1984年の営業部長時代は村井社長のもとで会社の変革に貢献した。部長就任前の10年間はアサヒの営業不振の時期であるが具体的な記述は示されていない。いたずらに悲観的にならず、前向きに営業マンの指導に努め、最重要市場を守っていたことが窺われる。

3)柔軟性を持つ 

自分の信念にいたずらに拘泥せず、部下が正しい意見をのべた時にはその意見を採用する。2001年に子会社化したニッカウヰスキーでは創業者の名前である「竹鶴」をウイスキーの商品名につけるという。「創業者の名前をつけて売れるものだろうか。途中でやめるわけにもいかないし」と反対。読みが外れて定着した。

4)人間に対する深い洞察力

大学時代レスリスバーガーの人間関係論をゼミで学び、組織で働く人々を幅広い視野で客観的に観察されていたと思う。組織としての効率的な活動の進める際の目配り、バランスのとれた人事、顧客への気配りが多くの支持を得る所以である。

                                                 以 上

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