- 中舎 重之
- 建築家
対象:老後・セカンドライフ
ヒミコに関する日本の文献の話です。
古事記にも、日本書記にもヒミコの姿はありません。歴史の上で抹殺されています。
ただ日本書紀の神功記に「晋の起居の注にいわく、泰初2年に、倭の女王、貢献せしむという」との引用があります。
この女王とは、倭国の2代目の「壱与」であると考えられています。
箸墓古墳の被葬者の話です。
宮内庁では、箸墓古墳の被葬者を倭迹々日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)としています。
歴史の上でヒミコを消し去った事で百襲姫命に代役を頼んだのでしょう。
百襲姫命は第七代孝霊天皇の皇女で、第十代崇神天皇の「大伯母」にあたります。
崇神天皇の巫女を務め、「能く未前を知り給えり」と評され、反乱を予知し未然に防せいだ事で、
天皇に貢献した女性です。
第十代崇神天皇の崩御が318年(古事記)、ヒミコの248年(魏志倭人伝)より70年も後のことで、
時代が掛け離れてしまいます。
箸墓古墳について、日本書紀:崇神記10年条にある記事を書きます。
「箸墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造った。
山から墓まで人民が連なって手渡しにして運んだ」
私は此の記事を眼にした時、箸墓古墳の謎の全てを解いてくれるキーポイントが此処にある感じました。
「昼は人が造り、夜は神が造った」
神を信じない現代の人には「神が造った」の一言で神話に棚上げします。
しかし此れは、お墓の築造にあたり夜も仕事をしたと考えて下さい。
昼夜兼行で工事を続行した事を示しています。 夜間工事は現代でも危険を伴う作業です。
明かりを持たない古代の人々が、夜に仕事をする大変さは想像をこえます。
たとえ、たいまつを灯したとしても、光の届く範囲は限られます。 凄い事です。
これこそが、「神が造った」と表現されて然るべき事です。
「人民が連なって手渡しにして運んだ」
ひとびとが、大阪の山から纏向のお墓まで、大和盆地を横断して人垣を連ねた事には驚きを通り越しています。
私の心の中での光景は、ひとびとが自発的に此の作業に参加したように見えます。
68年に亘る永い永い平和をもたらしてくれた人への大いなる感謝の心で、誰ともなく、
強制される事もなく、ひとり一人が自らの真の心を表したのです。
ここで、箸墓にも「ヒミコ」にも別れを告げて、次なる目的地・三輪へと向かいます。
山辺の道より東の丘を目指します。登り切ると二つの溜め池に出ました。
此の丘に立ち振り返ると、ヤマトの国中平野が一望に見渡せます。
目の真下には、先程の纏向遺跡と箸墓古墳が並んで見えます。
右手が纏向でやゝ茶色ぽい原っぱです。
そこから左に目を向けると青々とした畑があり、
つぎが、広々と水を湛えた大池があります。そして箸墓が堂々として座っています。
手前に見えるのが後円部(東)で高く円い姿で収まっています。
奥には、前方部(西)が横に広がり安定した形を見せています。
目を少し上げれば、大和三山が見えます。
手前が耳成山、奥が畝傍山です。左手に天香具山があるようですが、竹林に邪魔されて姿は見えません。
さらに、遠くに目を転じれば、正面に二上山、右に生駒の山並みが霞んで見えまました。
ヤマトを一望している自分が居る事が信じられない心地です。
歌碑があります。
「 やまとは 国のまほるば たたなずく 青垣 山ごもれる
やまとし うるわし 」 (古事記)
日本武尊が異郷の地で、死に臨んで、遠い「ふるさと」を想い描いて、詠んだ詞です。
此処の地で国中を見ている、吾々の心に深く深く しみいる詞です。
今、目にしている光景は、古へより多くの人々を魅了して止まない、
ヤマトの始元の風景かと思うと心が騒がしくなります。
山辺の道のクライマックス、ここに極まれり感で立ち尽くしています。
2013年 春 旅行
2014年7月 記す
中舎重之
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