"感謝"というものから放たれる明るい波動は、この世で一番軽やかであると言われます。
皆様は日頃、何かや誰かに対して感謝をされる事はございますか?
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でもこの"感謝"というもの。
巷では、頭で「感謝せねば!」と思う"義理"を感謝であると勘違いされておられる方も案外多い様ですので、今回はそこの所を深く掘り下げてみようかと思います♫
☆_(_☆_)_☆
私は子供の頃から、生きていてとても違和感を感じる事がありました。
それは良く大人達が、他人に向かって「あなたは感謝せねばならない」と言う事です。
それを聞く度に、私はいつも「感謝って、人に強要されて"頭"で考えて持つものなのだろうか???」という違和感を覚えたものでした。
そして同時に私が感じたのは、そういう事を語る大人達は人の事を言っている様で、実は「自分が人から感謝されたい」という願望が物凄く強いという共通点です。(※自分の中と外は一緒です)
( ・・) …
それは表現を変えれば、「ご自身が持つエゴからの優越感や差別意識から生まれている(本人は殆ど無意識の)コンプレックスから、他者にフラットになれず、他人に対して本当の感謝を持てない=頭での"持たねば"という感謝しか持っていない=義理を感謝であると勘違いしている事が多い」という事ですね~。
勿論とても義理堅いご本人達は「私は感謝を持っている人間だ!」と思っているし、又「そういう自分は人から感謝されるべき人間だ!」とも思っていて、自分を疑わない方がとても多いというのも特徴でしょうか。
(^^;
でもこういう方達には欠けている視野があります。
それは、この様な方達は実に"義理堅い"のですが、そこには常に「感謝」とは名ばかりの"重たい波動"が一緒になっているという事です。
何故なら義理というものは、大概その裏に「犠牲」というものがワンセットになっているからです。
(^^;;
ですので彼等は、口では「感謝」と言いながら、いつも何かに対して「不平不満」を感じているのです。
それは何故かというと、頭(マインド)で考えられたものであって、心(ハート)からの感謝ではないからです。
(・。・;
そしてその様な人は、他者に対しても同じ事を要求する様になります。
「あなたも私の様に感謝すべきだ!」と。(※自分の中と外は一緒)
(・・;)
彼等は他者に対して「何故あなたは感謝しないのか!?」と、いつも人を無意識にジャッジしているのと同時に、自分に対して「私は義理堅くなくてはならない」という自身へのジャッジを常に怠りませんが、
そういう"人を裁く心"から生まれる「怒り」「不平不満」等というものの波動が重いか軽いかというのは、皆様もお分かりですよね?
…と、ここまでの説明で、「他人に感謝を強要する」という行為の裏に在るものを、皆様にはご理解頂けましたでしょうか?
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ちなみに本物の感謝を持った方達の波動というのはとても明るく軽いので、人の心も軽くさせてくれるものですね♫
私に取ってはそれが「本物の感謝」かどうかのバロメーターです♡
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そして、人を重くしない「本物の感謝」というのは、「自分に正直に、自分の人生を心底楽しんでいる人間」にしか持てないものだと私は思います。
( ・・) ~ ☆彡
その様に生きている方達は、自分は何かに対して自発的に心で感謝する事はあっても、決してそれを人に強要する事はありません。
何故なら、自分が感謝で生きているので気持ちが満たされているから、他者からの感謝を必要としないからです♫
(*^^*) ~ ♡
感謝というのは頭でするものではないのです!
つまり"喜び"や"楽しさ"というものを感じる事が「本当の感謝」であって、それは他者から強要されて「理屈で持つ=マインド」ではなく、常に「自分の中から、自主的に湧いて来るもの=ハート」なのだという事ですね。
この辺りの事は、以前に書かせて頂いたコラム ★人に「感謝を求める」人は、自分が人や自分に「感謝をしていない」人 でもお伝えした事がありますので、良かったら参考になさって下さいませ♫
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では、その様な予備知識を踏まえて、今回のさくやさんとアシュタールのメッセージを読んでみて下さい。
「"感謝"とは何か?」という事が、より深く理解できるかもしれません。
(*^^*) ~ ☆彡☆彡☆彡
ミナミのライト らいと ライフ~light, right, life~ より
【さくやさんのメッセージ】
血縁とか、契約上の夫婦とか、そんなのまったく関係なしにみんなで一緒に住めばいいのよ。
何度も言うけど、みんなで一緒に住めば今あなた達が困ってる問題はほとんど解決するのよね。
一緒に住むって言っても同じ家とかじゃないわよ。
同じ地域?って感じかな。
そしてそれぞれが得意なことをみんなに提供すればいいじゃない。
だいたいね、あなた達が今困ってることは手が足りないってことでしょ。
子どもを預ける人がいない、病気や怪我をしたときに頼る人がいない、ってことじゃない。
そんなのみんなで手を貸しあえば何の問題もないでしょ。
江戸時代の人たちのように暮らせばいいんじゃないの?
あの子たちは、手を貸し合ってたわよ。
お金なんて使わなくても十分に豊かに暮らしてたわ。
それは、みんなが得意なことを提供しあってたから。
魚を獲るのが好きで上手な人が魚を獲って、お米を作るのが上手な人たちがお米を作って、
食器や包丁をつくるのが好きな人はそれをして・・・・みんなで提供してた。
今作られてるドラマとかは、お金を使ってそれらを買ってるみたいに描かれてるけどちょっと違うのよね。
もちろん、江戸の終わり位の都市部ではそうだったところもあるけど、ほとんどの地方ではお金など使わないで村全体で提供しあって暮らしてた。
子どもも村の子としてみんなで育てたし、病人や怪我人の世話もみんなでしてたわ。
見返り?お礼?そんなのは全く気にしない。
だって、みんな提供して、みんな提供されてるんだから・・
クルクルと提供が巡ってるだけなんだから、してあげることも、してもらうことも
当たり前だったの。
Aさんにしてもらったら、今度は自分が出来ることをBさんにしてあげる・・
そして、Bさんが出来ることをCさんにしてあげる、そしてCさんがAさんに何か
提供する・・もっと大人数でこれをしてただけ。わかる?
提供するのも当たり前、提供してもらうのも当たり前・・だから、スムーズに循環が起きる。
だから、みんな何も困らないってこと。
子どもを預かってもらったら(っていうより、みんなの子どもだから預かるも何もないんだけどね、たとえばよ) 怪我した人のご飯をつくってあげるみたいな感じ。
そして怪我した人も治ったら、今度は別の人の屋根を直してあげる・・みたいな感じ。
出来ることを、出来る時にする・・義務とか義理とかそんなことじゃないの。
当たり前のこととしてとらえてたから、変な諍いもなかったのよ。
してあげたのに、感謝しない(お礼も言わない)・・なんて思うこともないから。
あなた達も、そうやって集まって提供しあえば何も困らないのよ。
老後の心配することもないし、貧乏になって食べることが出来なくなったら、怪我したり
病気になったらどうしようという心配もいらないし、必死に保育園を探す必要もない。
そうやって提供しあって暮らしてたらお金も必要なくなるわ。
あなた達のほとんどの悩みのタネはお金に関わることでしょ。
お金っていう概念がなくなれば、その悩みも吹っ飛ぶってことよ。
そんなこと、今更出来ないよ・・って思うから出来ないの。
そりゃ、明日明後日に出来るってものじゃないわ。
でも、そんな暮らしが出来ればいいな、そんな暮らしをしたい・・って思っていれば、
そちらに現実は動いて行くんだから(少しずつよ)
だから、そんな暮らしをいっぱいイメージしてちょうだい。
イメージ出来ることは、自分で止めなければ絶対に現実になるの。
そしてね、そういう生活、暮らしの方が長いのよ。
じょうもんの子たちは何万年もそうして暮らしていた。
江戸時代の子たちも300年近くそういう暮らしをしていた。
今の分離された暮らしを始めてまだそんなに経ってないでしょ。
今のあなたの暮らし方の方が短いの。
そして、すごく不自然な暮らし方なの。
今からでもいくらでも変えることは出来るわ。
集団で生活すると気苦労ばかりで大変・・って思わされているだけ。
分離させておいた方が、支配者たちは楽に庶民をコントロールすることが出来るから。
分離させて、たくさんのことを一人でしなければいけなくなって疲弊させれば、重いエネルギーをたくさん放出してくれるから。
たくさんの人と暮らすってとても快適なのよ。
一日中働かなくても十分豊かな生活が出来るのよ。
自由な時間もたくさん持つことが出来るのよね。
そして、みんな好きなことをしているから楽しいわよね・・だからみんなご機嫌さんで居られる。
ご機嫌さんな人は、他の人に干渉しようとしない・・だからとても風通しのいい、気持ちのいい関係を持つことが出来るから、みんなで暮らしても気苦労なんて感じないってこと。
気苦労を感じるのは、みんながご機嫌さんじゃないから。
ご機嫌さんじゃない人達が集まれば、人のことに干渉し、人とコントロールしようとし、
比較し、どちらが立場が上かなどナンセンスな争いをはじめる・・
だから気苦労が絶えないことになる。
ご機嫌さんたちが集まれば、あなた達の抱えている問題は解決するの。
ね、簡単なことでしょ?
イメージだけでもいいから、そこからはじめてみてちょうだいね。
あなた達を心から愛してるわ~~。
【アシュタールのメッセージ】
こんにちは こうしてお話し出来ることに感謝します。
これからは”個の時代”です。
個の時代は、助け合う時代ではなく、提供しあう時代なのです。
同じように聞こえますが、大きく違うのです。
助け合う・・それは依存を産む危険性があるのです。
助ける、助け合う・・と言うのは、ある意味足りないところを補いあうということですね。
自分一人では出来ない・・という意味があります。
それは自立ではないのです。
言葉の壁ですね・・表現が難しいです。
個の時代は、自立が基本です。
自分で出来ることを提供するのです。
マイナスのところを見るのではなく、プラスのところを見るのです。
助け合う・・と言うのは、マイナスの部分を補い合うということです。
マイナスはないのです・・すべて満たされています。
出来ないことはない・・でも、得手不得手はあります。
不得手を補いあうのではなく、得手を提供しあうのです。
本当に表現が難しいですね。
足りないところを補いあうと意図していると、それが出来なくなった時に不満や不安が出ます。
それが依存になるのです。
依存しあうと、とても窮屈な社会になります。
誰かに頼ることになるからです。
これが今までの協力という考え方です。
寄りかかり合うことが協力で、助け合うことだと思われてきたのです。
それは自立ではありません。
支え合っていないと立っていられないのは自立ではないのです。
でも、自分が出来ることをただ提供するだけ・・と言うところに意識を持って行くと、
足りないところにフォーカスしませんので、すべてが満ち足りて来るのです。
思考が先、現実があと・・ですので、足りないところにフォーカスすると足りない現実を体験することになり、満足するところにフォーカスすると足りている現実になるのです。
たとえば、大人数で集まって生活しているところがあるとします。
草がぼうぼうに生えてきました。
ですので、みんなで手分けして助け合って草とりをしましょうとなります。
助け合うという観点から考えると、みんなで一斉に草取りをするのが良いとされます。
みんなの場所なんですから、みんなで助け合って草をとりましょう・・と。
ですので、その助け合いに加わらない人がいたとしたら、みんなで助け合っているのに
どうしてあなたは助け合いに参加しないのですか?・・と言われます。
そして、参加している人は参加していない人に対して怒りが出ます。
でも、提供しあうという観点ですと、草とりを得意としてる人、やりたい人がしてくれると
ラッキーと思えるのです。
みんなで助け合ってする・・と言う考えではないですので、やりたい人(提供したい人)がするだけですので、しない人がいても別に腹も立たないのです。
自分が草とりをしたほうが気持ちがすっきりする、やりたい、と思う人がするので、ある意味強制的なことにはならないからです。
助け合うというところには、期待があります。
でも、提供しあうところには期待はないのです。
期待はエゴになります。
期待をしていたのに、それをしてくれなかったという怒りになります
でも、最初から期待をしなければ、怒りも出ないのです。
そして、期待されてするとある意味義務になりますので楽しくありません。
しなければいけない・・という考えになれば楽しく出来ないのです。
でも、期待されてするのではなく、自分の好きなこと、得意とすることを自分で積極的に提供すると楽しくなるのです。もっとそれを提供したくなるのです。
これからは”個の時代”です。
そして、あなた達のエネルギーはそちらに確実に流れています。
実際に小さなコミュニティーがたくさん出来て来ています。
いろんな実験的試みが、いろんなところで自発的にはじまっています。
ですので、この助け合うという観点と、提供しあうという観点の違いを理解していただきたいと思うのです。
同じように聞こえるかもしれませんが、まったく違う観点なのです。
助け合うというのは、集団からの見方になります。
これは、今までの社会の組織と変わらなくなります。
でも、提供しあうというのは、個人としての見方になるのです。
これが”個の時代”です。
”個”が自立して、それぞれの得意なことを提供しあうのです。
助け合うのではありません。
そこをしっかりと把握していただければ、新しいコミュニティーの形が出来ると思います。
今日は言葉で表現するのが難しい話題になりましたが、感覚でとらえていただければ嬉しいです。
あなたに愛と感謝 そして平和の光を送ります。
以前にご紹介した事のある、我が家の住人の可愛いハリネズミちゃん達♡
「分け与える♡」という事から生まれる、ほのぼのとした温かさを感じますねぇ♫
(*^^*) ~ ✿✿✿
与える側に「これだけしてやったンだから自分に感謝せい!」というものがなければ、感謝というものは自然発生するというのに、全く私達人間というものは…!ですなぁ~。(笑)
正にこれは「北風と太陽」の法則でありまする。
(^^;(^^;(^^;(^^;(^^;;;
与える側が見落としてしまいがちなのが「自分も何かから与えてもらっているから、人に与えられる」という視野かもしれません。
私達は誰もが、この宇宙から「先に与えられている」という謙虚な視野ですね~。
ちなみに、この世で生きるのを一番つまらなくさせるものは"他者から強要される感謝"を「持たねば!と思わされる事」かもしれないですね~。何故なら、その様に意図して作られる感謝は不自然なので、人間の本当の感謝=喜びには決してならないからです。
まぁ、この様な方は、他者から「善い人」という評価は頂けるかもしれませんが…。
でも大概この様な方は、外面は大変良いけれど、身内の前ではヒステリックに苛々している人間多し!でございます事よ~。(笑)
(-_-;)
人から「感謝されたい」という思いが強い人というのは、自分の中が満たされていない人達なのです。
つまり「自分の思うままの人生を生きていない=自分の人生は、誰かの為に何かを我慢した犠牲的な人生である」という事を、意識する・しないに関わらず、心の奥底に持って生きている方達であるという事です。
ご自分が楽しんで喜びと共に生きていないから、他者から「もらおう」とする、それが「他者への感謝の強要・強制」という、自分の管轄外である"お節介"に繋がっているのでしょう。
(^^;
感謝は「自ら感じるもの」であって、他者に強要するものでも、されるものでもないという事です。
私が「一番の感謝は、心が喜び楽しむ事」だというのは、私達は「自分が持っているものしか、他者に与える事ができないから」なのデス♡
本当の感謝は、この様な自主的なものが"循環して行く事"であると私は思います。
(*^^*)~☆彡☆彡☆彡
ちなみに、今回のさくやさんとアシュタールのメッセージに通じるのではないかと思われる「老子のメッセージ」が書かれた過去のコラムも載せておきますので、もし良かったらこちらも参考になさって下さいませ♫
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このコラムの執筆専門家
- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年