- 中舎 重之
- 建築家
対象:老後・セカンドライフ
青森:三内丸山遺跡の話
ページ
遺跡とシンボルの話 1
建物の話 2
土器の話 2
縄文人はグルメだった話 4
石器の話 5
縄文人はお洒落だった話 6
三内丸山の交易の話 7
遺跡とシンボルの話
青森市の中心から南西へ3km、背後の八甲田山から下りてくる舌状台地の
端にあります。 標高20mの小高い丘陵地帯にあり、前方に陸奥湾を一望
できる場所にあります。
青森県総合運動公園の造成に先立つ、遺跡の調査で発見されました。
此の一帯は江戸時代から遺物が出土しており、世間的にも名の知れた場所です。
調査が進み、野球場一つ分(面積5ヘクタール)もの広大な遺跡が姿を現しました。
それでも全体からすれば、八分の一にすぎないと云います。
住居遺構、大型建家と倉庫群、さらに集団墓地、ゴミ捨て場としての盛土遺構
とフルセットでの出土です。 大規模集落と言うより古代の都市と呼べるものです。
注目すべきは、掘立て柱の構造物の跡です。直径2m、深さ2.2mの穴の中から
直径1m、長さも1mのクリの柱材が出土しました。表面は腐らない様に焼き焦がしていました。
考古学の学界は日本には、直径1mを越すクリの木など存在しないと否定する状況でした。
後日直径1mを越すクリの巨木は何本も見つかっています。
此の構造物は遺跡のシンボルです。柱の穴は6個で、3個づつ2列に並んでいます。
構造物の軸線は、北東から南西方向です。北東方向は三内丸山の「夏至の日の出」
のラインであり、南西方向は「冬至の日没」のラインになります。
計算された方向であり軸線です。 5500年前の縄文人の感覚には驚きます。
柱の間隔は4.2x8.4mです。これは縄文尺のサイズとの事です。
35cmx12=4.2m にて設計されています。
全ての柱が角度を内側に2度傾かせており、構造物の安定に配慮しています。
高さと形を記します。ここでは復元されている物をなぞります。
柱の直径は1m、長さは17m、材質はクリ材、柱1本の重さは8tの巨木です。
地上からの高さは15mになります。
それでも5階建てのビルに相当しますから 迫力はあります。
6本の柱を直立させ、最上部にステージを組み、中間の5m毎に2段の横木に
より6本の柱を緊結させています。此の構造の力強さは見る人々を圧倒します。
此の大工事を、人力と縄のみで建てたエネルギーは、何処から来るのでしょう。
此の構造物の用途は全く不明です。物見櫓、祭祀用施設、天文台、灯台説と
多々あります。当方は用途は灯台と見ております。 推論は下に記します。
此の縄文中期(6000~4000年前)の時代は縄文海進により気候が温暖で、
海面が現在より5~6mも高い状態です。
ですから、沖館川は陸奥湾と直結しており舟での往来が日常化していました。
陸奥湾は途轍もなく広く、方向を見失う事は死を意味します。
夜間に限らず昼間でも霧や霖雨などの気象の激変もあります。
それと、新潟県の糸魚川をはじめ,山形県や秋田県からの日本海沿いの交通は、
陸上ではなく、海上航路で対馬海流に乗り、沿岸沿いに北上します。
そして津軽海峡から陸奥 湾に廻り込みますが、
陸奥湾の入り口から最深奥の三内丸山までは距離にして42kmは有ります。
当時の海面から高さ15mの丘の上に高さが15mもある構造物は、灯台の役割で
此の航路の目標になると考えました。
木を垂直に立てる遺構は北陸地方に十数例あります。
真脇遺跡のウッドサークルは直径1m近いクリの木を半割にして、平な面は外側に向け、
丸い面はサークルの中心に向けています。サークルの直径は7.4mで柱は10本立ちます。
高さは4~5m位でしょうか。
イメージ図で見るサークルは、清浄な雰囲気があり明らかに祭祀用と思われます。
真脇遺跡は、5000年前の縄文前期初頭から晩期末の約4000に亘り繁栄を続けた集落跡です。
イルカの骨が285頭分出た事で世界からも注目されています。
此処からは丸木舟と櫂も出土しており、縄文の世界では海は生活に密着しています。
建物の話です。
居住エリアには、竪穴式住居跡700棟以上、集落の中心を形成するエリアには、
大型(共同)住居20棟、大型掘立て柱の建物が2棟、地面に甕を埋め込んだ貯蔵棟と、
床を高くした倉庫群が多数あります。
大型掘立て柱の建物は、屋根を形成する合掌があり、合掌を受ける柱が直立しており、
その柱と柱を繋ぐ横木もあります。 そして壁を有する本格的建造物です。
柱の直径は40cmもあり、それを繋ぐ横木を同じ太さに見えます。
堅牢な梁構造は、此の広い空間を支えるのに充分な構造で見事の一言に尽きます。
規模は全長32m、幅9mの長楕円形の平面形(床面積75坪)です。
用途は明らかに集会や共同作業所として使用されたと思われます。
竪穴式住居は、地面から屋根を支える部材が斜めに中央に集約する形で、
平面は円形が基本です。 面積も少人数の家族が寝起きする小さいものです。
ですから、大型掘立て柱の建物は他の建物と較べて、その大きさといい、
現代に通じる堅固な構造と言い 別の世界に紛れ込んだ様な異様さを感じます。
土器の話です。
ここでは、三内丸山の土器と云うより、縄文土器の話をします。
参考として、縄文期の時代区分を記します。BC10000年<草創期・早期>
BC4000年<前期>BC3000年<中期>BC2000年<後期>
BC1000年<晩期> と大区分されています。
土器の製作は人類の歴史の中でも特筆すべき出来事です。
石器時代=狩猟・漂泊型から縄文時代=採取・定住型へと、生活様式が明確に激変するからです。
土器の使用での第1義は、食生活が従来では、なまのままか、焼く事での摂食でしたが、
土器を手にした事で煮るという行為がプラスされました。
これは、2+1 が3ではなく4にも5にもなる程の食生活の広がりです。
煮る事で固い物を軟らかくして、幼い子供や老いた人々にも食せる様になりました。
それと煮ることで食物の日持ちも格段に長くなる効果もあります。
土器の働きの第2義は、貯蔵にあります。石器時代では、食べ物の獲得と食べる事の
時間差がほぼイコールでしたが、貯蔵が可能になり食べ物の採取の量と種類が
飛躍的に伸びました。食べる時期を恣意的に調整し、時間差を利用した食生活が
ゆとりと豊かさを手に入れました。
おおだいやまもといちいせき
人類最古の土器は、青森県の大平 山元 Ⅰ遺跡から発見された土器片です。
炭素測定法により、1万6500年前のものと判定されています。
此の遺跡での石鏃も日本最古で、すでに弓矢の使用を示唆しています。
土器の形は、草創期の丸底深鉢から、熱効率の良い砲弾形の尖底深鉢へと変わり
最盛期には華麗で装飾的な火焔土器さえつくられました。
晩期になると火焔土器は次第にすたれて、シンプルなデザインの浅鉢が現れます。
三内丸山では全国でも出土例が少ない「台付浅鉢型土器」が出土して、
力強い縄状の装飾が施されている姿が見られます。 まさに芸術品です。
土器の文様は時代の名称ともなる縄を転がして付ける方法、ヘラで描く方法、
糸状の粘土を貼り付けて立体的に表現するなど、造り手の工夫が見えます。
形の芸術性だけではなく、赤や黒で彩色した洗練された物も少なくありません。
土器の用途もハレ(祭り)とケ(普段)の区別の他に、普段用として煮炊き、盛り付け、
貯蔵用、醸造用と区別して製作されています。
この様に多彩な土器を見るにつけ、土器の作り手がもっぱら女性の仕事なので、
その知的レベルの高さと感性の豊かさには、心から敬服を致します。
三内丸山から出土した土器では、バケツを長くしたような独特の形状の「円筒土器」があります。
時代は縄文前期に属する円筒下層式と、縄文中期に属する円筒上層式があります。
此の土器のC14の放射線炭素による年代測定から、
縄文前期 中葉(BC3500年)から縄文中期末(BC2000年)のおよそ1500年の
長期に亘る縄文人の生活の跡であると証明されました。
また、土器の様式と製作数から、此の大集落の人口は250~500人の間で
推移していた事も判明しています。 考古学研究の素晴らしさをも教えられました。
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