自我(エゴ)の正体 - コラム - 専門家プロファイル

池本 真人
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閲覧数順 2024年04月19日更新

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自我(エゴ)の正体

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徒然日記
前回、良いことをしているつもりの自分の姿が見えていないという話しをしました。
【行為の裏側にあるもの】http://ameblo.jp/mikatakakumei/entry-11863756460.html


「自分自身でも気付かないことがあるの?」
と思うかもしれませんが、その自我というものが何より厄介なものなのです。


仏教では「無我」ということを学びます。
「無我なんて言っても自分はいるじゃないか!」
と、最初は何のことだかよく分からないものなのです。


しかし、論理的に一つ一つを追及して学んでいくと、人間の本質というものは無我だというところに行き着きます。
その無我ということが分からない故に自我(エゴ)というものが生まれてくるのです。


あなたが記憶喪失になったと想像して下さい。
「自分は何者なのだろう?」
本当の自分を思い出せないというのは恐ろしいものです。
人間は恐怖から逃れるために自分というものを追い求め、自己を作り出し、作られた幻の自己に執着していきます。
その自分への執着が自我(エゴ)なのです。


「私は私である。あなたはあなたである。」
と、自他を分け、作られた感情や思想に必死でしがみつきます。
自分というものが何か分からない限り、私達は自我に騙され続けるのですね。


自他を分けるのだから、当然の如く自分の利益を追求しようとします。
自分が自分のために動くのは当たり前だと思う様になるのです。
「人の為に動く」と言いながら、その裏側に自分の利益が隠れているにも関わらず、当人は悪いことをしていると思ってもいない…。
それは、自分自身ですらも自我に騙されている状態です。


生まれ持って無智な人間は、無我になるということを必要以上に恐れます。
「楽しむという感情も無いロボットのようになるのではないか?」
「人間性というものを失ってしまうのではないか?」


「無我になれば自らで自らをコントロール出来なくなってしまうではないか!」
と、未知のものに対する恐怖を自我が増長させるのです。
さらに自我は次のようなことを囁きます。
「私がいなくなったら君はどうなると思う?私以外にあなたを守ってくれる者がいるのだろうか?君は私が消え去るということを本当に望んでいるのかい?」


本来の自己を知らない私達に、自我が囁く言葉を跳ね返す力はありません。
本当は自分で選択しているのではなく、自我に動かされているということにすら気付いてもいないのです。
しかし、心の奥底で自由が無いということには何となく気付いています。
故に様々な道を模索し始めるのです。


「私という存在はもっと自由なのではないだろうか?」
運命に満足出来ず自由という道を追い求め、「これが本当の自由だ!」と思うものに出逢ったとしても、それは自我という鳥かごの中で少し動き回った程度のものです。
それで満足出来ない人間は、また新たな刺激を求めて鳥かごの中を飛び回ります。


エゴというのは実に巧妙に誘惑を仕掛けてくるのです。
真実を捻じ曲げ、自分の都合の良いところだけを選択させようとします。
神様、占い、パワースポット、引き寄せ…。
自分にとって都合の良い情報のみを拾い上げ、楽しいという錯覚を与え続け、自我の存在に気付かれないようにしているのです。


そこから逃れる道に最初に気付いたのがお釈迦様なわけですが、その教えに触れた時、自我も最初の内は応援するのです。
「まるで自分の心が洗われていくようだ!私も付き合うから、もっとこの教えを深くまで学んでいこう!」


ところが学びが深くなるにつて、自己の真実に気付き始めます。
自分の中にあるドロドロとした醜い姿に触れていくことになるのです。


そんな醜い自分の姿を見させられた時、怒りと反発の感情が湧いてきます。
「こんなはずじゃない!」
と憤っている時、自我は何をするかというと、忠義面をしてあなたの横にいます。


そして、こんなセリフを囁くのです。
「君の怒りはもっともだ!こんな姿を見る必要は無い。本当の君の魂は純粋で美しいものだ。自分が無いなんて馬鹿げている!そんな苦しい思いまでして偽善者ぶることはないよ!さあ別の場所にある本当の自分を探しに行こう!」


自我は最初に持っていた信念を萎えさせ、再び苦しみのサイクルの中へ引きずり戻すのです。
自我が強い人は、自他の区別も強いので、自尊心を傷付けられることを恐れます。
その恐れは、攻撃として現れることもあれば、従順な姿として出てくることもあります。
人に嫌われるのが怖いので、仮初めの優しさとして現れることもあるのです。


これが「良い人だと思っていたのに実は…」という正体です。
その自我というものは、本人ですらペテンにかけているので、普段の生活を行っているだけでは気付くことはありません。
いざ自分の利益が脅かされるという状態に追い込まれた時、初めて表に現れてくるようになるのです。


心の学びを深くしていく過程で、どうしても今まで溜め込んできたものを見ていく必要があります。
それを浄化にしていくためには、少しずつ綺麗な水を入れていくしかありません。
途中で逃げてしまったら、また汚水を入れ始めてしまい、再びドロドロの汚泥に塗れた心に戻っていってしまうのです。
だから綺麗な水を注ぎ続けるということが必要なわけです。


そのためには、本当の学びを教えてくれる人に出会い、美と愛が何かを学び、綺麗な環境で水を注ぎ続けていかなければいけません。
その水が何かというと「善」というものなのです。
善というのは「美」と「愛」のことです。
美を一言で言えば個人的幸福のことであり、愛を一言で言えば社会的幸福のことであります。


このようなことを一つずつ学び実践していくことで、自我という檻に捉われていた自分に気付き始めます。
そして、その檻の中にいる限り不安や苦悩が無くならないことも知ります。
その檻から抜け出した瞬間、この世界の本当の美しさや広大さというものを目の当たりにするのです。
これは何も夢物語ではなく、現実世界の中の話しです。


自我に覆われて素直さや謙虚さが無くなっている状態だと、「そんな上手い話があるわけがない!」と批判して、攻撃的な気持ちになります。
自我が騙すのは周りの人間だけではありません。自分自身をペテンにかけ、本当の自己を分からなくさせるのです。
言うなれば自我とは、天性の詐欺師のようなものなのです。


自我に覆われて見えない本当の自己に触れた時、初めて自分の本質が何か分かり、感謝の気持ちというものが溢れてきます。
感謝の気持ちがあれば、何をして生きていくべきなのかが明確に見えてくるのです。
目が覚めた人というのは生き方が違います。
決して自分の快楽のためだけに動くことはありません。


ただし、それが苦痛ということは決して無いのです。
大きな喜びに包まれた中で生きていくことが出来るようになります。
自我が強い内は、怒り、不安、妬み、悲しみなどが消えることはありません。


その喜びに到達したことが無い人は、次のようなことを言います。
「宗教的な悟りではなく、自分の幸せを見つけていきましょう♪」


言葉だけ聞いたら、とても耳触りの良い感じがします。
でも、そこに本当の幸せというものは無いのです。
何故ならペテン師に騙され続けている仮初めの幸せに過ぎないからです。


本当の意味で世界を平和にしたいのであれば、自我を知り、環境の操り人形になっている自分に気付くことです。
そのためには、自分との戦いを乗り越えないといけないわけです。
「まだ自分と戦っているの?そんなところから早く卒業して幸せな世界へ行こうよ!」
という自我の声…。


さて、ここで問題です。
あなたが聴こえている声は、自我からのものでしょうか?
それとも神様からのお導きでしょうか?
あなたが思っている神様は、どこから生まれてきたものでしょうか?


自我を抜けた人には悩みがありません。
生き方に迷いもありません。
自分の為だけに動くこともありません。


あなた自身はどの状態でしょうか?
あなたが信じている人は、こんなことが出来ているでしょうか?
偽りの言葉や行動ではなく、その裏側を見抜けるようになるには、まず自分自身が抜け出さないと何も見抜けないわけですが…。


そもそも自我は存在しないということに気付いて、早く幸せになって頂きたいなぁ…と心から願っています。
「早く目を覚ませ!」
と、頬を引っ叩きたい気持ちです(笑)


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