智慧の眼を開く
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徒然日記
2014-01-25 12:00
これは事実であるのですが、「実際に大変な状況なのに、そう言われてもよく分からない…。」
と思う人は多いかと思います。
仏教の中に「一水四見」という例え話しがあります。
水という一つのものがあって、見方は一つしかないように見えるけれども、それぞれの立場から見たら、四通りになる…という例えです。
人間が見たら飲んだり泳いだり出来る水ですが、魚からしたら、それが生きる世界ということになります。
空を飛べる天女からしたら、キラキラと輝く地面になるけれど、餓鬼からしたら燃え上がる炎の膿の流れに見えると言うのです。
「そりゃあ、種別が違うのだから当然だろう。だけれども人間という種別から見たら、やっぱり水は水じゃないか。」
と思われるかもしれません。
ところが、同じ人間であっても、見方が違えば、当然の如く受け止め方が変わってきます。
以前、お子さんを持つアトピーのお母さんが、こんなお話しをされていました。
「私はアトピーで荒れてガサガサになっている自分の手が大嫌いだったのですが、ある日、息子に『お母さんの手は綺麗だよ。』言われたんです。」
そう息子さんに言われてから、自分の手に対するコンプレックスが無くなったわけですね。
お母さんのことを何も知らない人が見たら、荒れた手だと思うかもしれません。
だけれども、知っている人が見たら「大好きな手」になるのです。
また、紛争地域に住む女の子が兵士に「何か欲しいものがあるかい?」と言われた時に「平和」と答えたそうです。
「ただただ平和が欲しい…。」
その純粋な思いがある一方、平和な日本に住んでいる我々はどうでしょう?
「子供が言うことを聞かない…。」
「夫が話しを聞いてくれない…。」
そんなことで悩んでいます。
何故このようなことになってしまうかと言うと、見える範囲が狭いからです。
自分の考えから抜け出ることが出来ないために、それに捉われ、了見が狭くなってしまうのです。
じゃあ、見える範囲を広くするにはどうするか…というと、慧眼を身に付ければいいということになります。
慧眼というのは、智慧の眼を書きますが、「まずは物事をハッキリ見える眼を持ちましょう。」ということです。
物事がハッキリ見えるようには、どうしたらいいかというと、仏教で言うところの智慧を身に付ければ良いということになります。
その仏教の智慧が何かというと、「無常」「無我」「空」「零」「一」「円」などと言われるものになるのですが、そんなことを言われても何のことやら分からない。
だけれども、学んでいけば誰でも理論的に分かるようになっているのですね。
ところが慧眼というものは、知識だけを学んでも身に付くものではありません。
どれだけ勉強が出来たとしても、物事を見る力があるかというと、また別問題ですよね?
幅広い世界を見られるようにするためには、学んだことを実践に移していかないといけないわけです。
つまりは経験ということになります。
「実践が大事だと言うのなら知識はいらないじゃないか。」
と思われるかもしれませんが、いくら羽ばたく羽根を持っていたとしても、目的地を知らなければ辿りつくことは出来ませんよね。
学びと実践を同時に行っていくことでしか、慧眼というのは身に付いていかないわけです。
まずは自分の了見がどれだけ狭いのかということに気付かなければなりません。
自分が病気だということを知らなければ治すことも出来ないように、まずは経験豊富な医師に診断してもらう必要もあります。
その医師がブッダであり、治療法が仏法だという言い方も出来ます。
誰にでも当てはまることを、誰にでも実践出来る方法で残したのがブッダです。
学びと実践を繰り返して、幸せに生きるための眼である慧眼というものを身に付けていきたいものですね♪
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