神話:纏向遺跡と邪馬台国  2 - 生涯学習 - 専門家プロファイル

中舎 重之
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閲覧数順 2016年12月02日更新

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神話:纏向遺跡と邪馬台国  2

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  邪馬台国を語る人が100人おれば、100通りの見方と説が生まれます。

限られた資料から読み解き、説を組み立てます。

確たる証拠が無いのですから、肯定もできず、否定も出来ない状態です。

かく言う当方も右倣えです。

従って、101人目の101番目のお話として、お付き合いを願います。


  話は、邪馬台国の所在地に関してです。

唯一の資料である「魏志倭人伝」を使用して、文章を見ずに都合の良い所の文字を拾い読みします。 悪しからず。

① 帯方郡より邪馬台国への道程。

  「帯方郡→水行7000余里→狗邪韓国→渡海3000余里→末廬国(佐賀県松浦)→東南陸行500里→

伊都国(福岡県糸島)→東南<実際は東北>100里→奴国(福岡県博多)→東南<実際は東>100里→

不弥国(福岡県粕屋)不弥国より南に水行20日で投馬国(?)、さらに南に水行10日陸行1月で邪馬台国」


此の記述では、「日数」を合計すると、水行1月+陸行1月の行程になります。

帯方郡から不弥国までは「里数」で表記され、以下は「日数」での表記です。 何故でしょう。

中国の歴史文献「隋書」(589~618)の著者が、東方の蛮族は距離を知らず、日で計っていると解説しています。

 要は、魏からの使者が自ら踏破した所までは「里数」で記し、倭人からの伝聞による情報は

「日数」で記したとされています。

私も、応対した日本の役人が、故意に邪馬台国の所在地を隠蔽したと考えています。


 次は、実際の行程の話です。

平安初期での太宰府から京都までの日数です。 海路なら30日、陸路の上り(上納の荷物あり)27日、

下り(荷物なし)で14日と規定されています。 

江戸時代末期、高杉晋作が山口県三田尻港から藩の船で江戸に出た時、30日を要した。

晋作は俺の足で歩いたなら20日で良いものを、10日も損をした。 もう船には乗らないと憤慨しています。

  結論、魏志倭人伝からは邪馬台国の位置は特定できない。


② 伊都国に置かれた一大率。

  「女王国は、他の国々に対して一大率を置き諸国を検察させている。国々は一大率を畏れ憚かっている」

  これは、伊都国が外交の窓口で、邪馬台国から一大率を全権大使として派遣して、

対外的には一大率が主席で、伊都国王は次席のシステムです。

現代流にいえば大阪か東京に本社がある会社が、250km離れた名古屋か浜松に本社機能を備えた支社は

置かない。

 結論、このシステムは、邪馬台国の九州説を否定する制度です。


③ 魏志倭人伝に記されない話。

  魏志倭人伝には、ヒミコと魏の使者との謁見の記事がない。

使者は鏡などの土産は持ち帰ったとの記録はあります。それだけです。

ヒミコが九州の鹿児島に居たとすれば、大国の使者を小国の女王が直接に歓待しないのは、

失礼を通り越して無礼な振る舞いです。

古来より礼節を重んじる倭の国としては恥ずべき事態と言えます。 

ちなみに福岡と鹿児島は直線距離で250kmです。

 帯方郡から福岡までの距離なら750kmです。

さらに云えば、ヒミコが魏の都・落陽に朝貢させた人々の行程は、2000kmを越えています。

例え、帯方郡から船で黄海を渡り、さらに黄河をも遡ったとしても凄い事です。

結論、魏志倭人伝に記録がない事で、ヒミコは九州には居ないと断定できます。


④ 邪馬台国の四官とは。

  「邪馬台国に至る。(中略)官に伊支馬あり、次は弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という」

  魏志倭人伝には、倭国の諸国の官職に関する記事があります。

邪馬台国には、四官の名前が記載されています。

ここで、私の当て推量を始めます。 

邪馬台国での官が一つ副が三つとは、官・副が四つの国を示している考えます。

以下に官と副をカナ文字で当て嵌めてみます。

官  「伊支馬」 は、イキマ :奈良盆地の北西の地域。
副  「弥馬升」 は、ミマト :葛城に相当するか。
副  「弥馬獲支」は、ミマワキ:三輪を示す。
副  「奴佳鞮」  は、ナカテ :特定の場所が見えない。

とにかく、官・副が後のヤマト朝廷の有力氏族と重なるイメージがあります。

  結論、邪馬台国を一国の国名とは考えずに、邪馬台国連合と呼びたいのです。

ヒミコは一国の女王ではなく、連合の首長と解釈します。

現代流に云えば、欧州連合:EUの大統領の役割と考えます。


①は所在地が、何処にでも比定できる。魏志倭人伝からでは不明が答えです。

②は邪馬台国の「一大率」が伊都国に居るのだから九州説には無理があります。

③はヒミコが九州に居るのであれば表舞台に出なかったのは大きな謎です。 

④は官副の名が地名と関連するのならば邪馬台国は此処の場所で決まります。 


纏向の話の続きです。

邪馬台国とは直接関連はありませんが、ヤマト朝廷と関係のある名前と地名を書きます。

場所はいずれもJR線の東側で山際です。

第10代 崇神天皇:磯城瑞籬宮(しき みずがきのみや)  櫻井市金屋
第11代 垂仁天皇:纏向珠城宮(まきむく たまきのみや)櫻井市巻野内
第12代 景行天皇:纏向日代宮(まきむく ひしろのみや)櫻井市穴師


  纏向の地は、ヒミコの時代(180~340)から、ヤマト朝廷の初期

(340~390)へと継続して行きます。

日本書紀によれば、ヤマトの最初の大王は神武天皇とされていますが、

歴史的には、第10代 崇神天皇が、実在の初代大王とするのが妥当です。

  黎明期の大王家の宮が、三輪山山麓の纏向遺跡の近辺に置かれた意義は大きいと考えます。 

纏向に都市が造営され始めたのは2世紀末で、それが4世紀前半まで、

ヤマトの中心で有り続けた事は注目されて良いと思います。


  邪馬台国の話は、所在地が九州か近畿かに絞り、魏志倭人伝の記事により

推測しました。

ついでに、ヤマト朝廷の関係が纏向に濃厚にある事を示して、

結果として、邪馬台国の大和説の応援を致しました。


  さて、纏向遺跡の近辺から離れ、いよいよ箸墓古墳へと足を運びます。

北から眺める古墳のプロポーションの素晴らしさは、言葉で言い表せない。 

手前には、広々とした濠があり、水を満々とたたえて古墳を際ただせています。

水の色まで落ち着いて古代へと誘っているようです。 時間を忘れさせます。

  箸墓古墳については、項を改めて話をさせて下さい。


                                        2013年 春  旅行
                                        2014年7月  記す

                                                      中舎重之





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