神話:箸墓と卑弥呼の話 2 - 生涯学習 - 専門家プロファイル

中舎 重之
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稲垣 史朗
稲垣 史朗
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閲覧数順 2024年04月19日更新

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神話:箸墓と卑弥呼の話 2

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  箸墓古墳の話を続けます。

3世紀の古墳で名前が知られている古墳を三つ列記しましたが、大きさ(全長)は、いずれも80~130mです。

同じ時代の箸墓古墳が全長280mですから、如何に大きいかが、お分かりいただけると思います。

  さらに、大きさの比較をします。箸墓古墳より後に築造された三人の天皇陵の全長が227~300mです。

規模での比較では、天皇陵と同格に見えます。

私が申し上げたいのは、箸墓古墳の被葬者が、大王にも比肩する大いなる人物でなければ成らないと云う事です。


  特筆すべき事が他にもあります。 それは基壇のテラスの数です。

箸墓古墳の基壇のテラスの数が、前方部で4段、後円部で5段となっています。

規模において最大の陵墓である仁徳天皇陵(大仙古墳)の基壇のテラスの数が前方部で3段、

後円部で4段で造られています。

即ち、此の陵墓が箸墓古墳の基壇のテラスの数より、一段づつ低く築造されたと云う事です。


  古墳の気格において、箸墓古墳が最上位に位置し、以降の古墳では、

基壇のテラスの数で一段減らして築造したと思われます。

基壇のテラスの数が前方部で4段、後円部で5段の古墳は、箸墓古墳が唯一の例となります。

  兎にも角にも、後世の大王により箸墓古墳が別格の扱いを受けていた事実に注目して下さい。


  ここから、古墳の話を離れ、卑弥呼の話へと移ります。

卑弥呼の漢字の名前を問題にします。 此の字は、魏での当て字と思われます。

魏での蔑称である可能性が非常に高いと考えます。

この名前を文字通りに解釈すれば、「卑しい巫女」と云う意味になります。

  これは、中華思想から来たもので、自国の周辺の国々を野蛮な国と見下して居るからです。

南は南蛮、北は北荻、西は西戎、東は東夷と名を付けています。

魏志倭人伝の正式な名称は、[三国志]「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条 と云います。

  私は、魏志倭人伝の漢字での当て字が嫌いなので使用しません。 ここの文章では、カナ表記にます。

カナ表記での「ヒミコ」は、私の心の中では「日の巫女=ひのみこ」なのです。


  魏志倭人伝には、「倭国は元々、男を王としていたが、70~80年で中断し、倭国は内乱に陥り、

互いに攻め合い、それが何年も続いたので、一人の女を王として共立した。

名を卑弥呼という。鬼道につかえ、よく衆をまどわした」とあります。 

内乱の時期は146~189年とされています。


  ヒミコの時代の風習も記されています。以下に記します。

支配階級を「大人」と呼び、庶民を「下戸」と呼ばれていた。

道で大人に出くわした下戸は道を譲り草むらに入った。 大人の言葉を聞く場合は、

うずくまったり、ひざまづいて恭順の姿勢をとった。 下戸の下には「奴婢」が存在する。

また、「盗窃せず、争訟少なし」とあります。  

  邪馬台国では、正しい秩序が守られて、平和な社会と見られており、

犯罪も極めて少なかった事を伺わせます。

犯罪が起きた場合の処罰は、軽い刑では妻子とも奴婢に落とされ、

重い罪の場合は家族と父子親族まで累がおよび、滅ぼされたとあります。


  ヒミコの情報は極めて少なく、「かなり高齢の女性で生涯独身を貫き、弟が一人おり、

邪馬台国の女王となってからは、人目を避けるように高い楼閣に隠棲していた」 と記述されています。


  ここからは、当方が勝手に話を創る一人言です。

180年にヒミコが女王になったのは、100余国が争い、30余国迄になる内乱の最中でした。

その争いを収める働きをなしたのは凄いの一言です。

死を迎えたのは、248年で狗奴国との戦争の最中です。

一見すると劇的な生涯とみられますが、話は全く逆です。 

女王ヒミコとしての在任期間の180~248年の68年間は

平和が保たれていたのですから驚きです。 

ちなみに、応神天皇からの歴代天皇の中で、穏やかで長い時間を持ったのは、

飛鳥時代の推古天皇(女性)の36年、室町時代の後花園天皇の36年、

江戸時代の光格天皇の38年がある位です。


  ヒミコが鬼道により、衆を惑わしたとありますが、ヒミコが女王になったのは

芳紀まさに12歳と思われます。

たぶん、ヒミコは明るく爽やかに邪馬台国の輝く未来を指し示したに違いないのです。

その言の葉は猛々しい男共の心に染み入ったと思います。

戦乱を収め平和への道筋を示す彼女こそ「日の巫女」なのです。

鬼道とかシャーマンとかの、おどろおどろしさとは無縁と思います。

68年間に亘り民衆を指導し続けられた基本をなすものはなんなんでしょう。

想像するに農作業にとって、最も大切で欠かす事が出来ない何かなのですね。




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