- 中舎 重之
- 建築家
対象:老後・セカンドライフ
奈良:纏向遺跡と邪馬台国
2013年春、京都から近鉄京都線ー橿原線で奈良の桜井に出ました。
さらに、JR桜井線に乗り換えて、二つ目の巻向駅で下車しました。駅の脇の細い道を北へ向かいます。
住宅街を通り抜けて、広々とした原っぱに出ました。 此処が目的の纏向遺跡の発掘の跡です。
東側の線路際の隅っこに遺跡の説明板が立っています。 まずは、その説明板により遺跡を紹介します。
纏向遺跡は、三世紀初頭に出現し、四世紀の初めまで営まれた大規模な集落跡です。
広さは、東西2.5x南北2kmで、2009年の発掘により大型建物の址が見つかりました。
100x150mの長方形区画の中央に位置し、東西に4棟が並ぶ壮大な光景です。
東西にヨコに一直線に建物が並んでいる事実に、当方の心は躍り上がりました。
日本列島で初めて目にする遥かなる、古代の姿です。
此の時期より400年も後の斑鳩の里の法隆寺は、南北のタテを軸にした伽藍配置です。
仏教建築は全て南北を軸にしていますから、纏向遺跡の東西のヨコの線は、とても新鮮で、
嬉しさが込み上げて来るのです。 文字の世界・神話では眼にしています。
日本書紀に神武天皇を葬りまつるとして、畝傍山東北陵(うねびやまの うしとらの みささぎ)と記されています。
東北=うしとら の文字です。
現代の吾々の頭には、地図上で北が上、南が下が常識です。
うしとらの方向なら、北の東=北東と表記します。 東北とは書きません。
先程、東西をヨコ、南北をタテと言いましたのも、現代の感覚にての表現です。
私の感覚でヨコの線について、もう一言追加します。此の纏向を中心として、
東の日出る処が伊勢神宮で、西の日没する処が出雲大社と見ています。
ただし、伊勢神宮は崇神天皇以降の話で、此の時代には無い話です。 よろしく御理解を。
建物は、西からA,B,C,Dと符号がありますので、データを記します。
A棟:東西 5.0x南北 8.5m 此の建物のみ柵外
B棟: 2.5x 5.0m
C棟: 5.3x 8.0m 小さいが棟持柱あり=外観は伊勢神宮
D棟: 12.4x 19.2m 弥生時代の最大の建物跡
B,C,Dの3棟は周囲に柵が回らされいます。
D棟の床面積は238㎡で、佐賀県吉野ヶ里遺跡(紀元前3世紀~紀元後3世紀=弥生時代の全期間)の
大型建物跡の156㎡を遥かに上回っています。
此の時代の建物が竪穴式住居に見るごとく、地面を掘り下げての土間が、
そのまま床でした。
ところが前出の建物は高床式住居の形式であり、それ自体が特殊な目的があると思います。
政治上、宗教上、社会上の差別化でしょう。
遺跡で注目すべきは、これらの建物が200年頃建てられて、250年頃に廃絶されたとの事です。
要は建物の柱が引き抜かれて、別の場所に移築されたと云う事です。
さて、発掘の対象となる地域は、JR線巻向駅を中心とした、東西2.0x南北1.5kmに及ぶ楕円形です。
面積3km2=300ha。 此の場所を太田地区と呼び、発掘は全体の5%程度との事です。
古くは、この遺跡は「太田」「勝山池」「箸中」などなど、小さいブロックごとに別々の名で呼ばれていましたが、
1971年の調査で大規模な遺跡と分かり、全体を纏向遺跡と呼ぶようになりました。
この規模は、後世の藤原京や平城京などに匹敵します。
しかも、農耕の痕跡がなく、政治と宗教に特化した「大都市」として見る事が出来ます。
此の遺跡の地勢的背景の話をします。
大和盆地を俯瞰すれば、三輪山・巻向は盆地の東の外れで山際で高い所です。
此の盆地は縄文末期までは、海抜75m付近まで水をたたえた大和湖でした。
ですから三輪山から東の高原地帯のみが人々の居住が可能な場所でした。
大和湖と高原の山際の間を南北に走るのが「山辺の道」です。
大和が西へ西へと広がる為のスタートラインが、まさに此の三輪山なのです。
すなわち、東が高く西の信貴山の麓が低いと考えて下さい。
なを、縄文時代の大和盆地を区切る生駒山地の西側の大阪平野は、
河内湾として海水が生駒山地の近くまで入り込んでいました。
弥生時代になり、河内湾は淡水化して河内湖になります。
古墳時代には、大和湖も沼沢を残して後退したようです。
纏向の話です。
纏向遺跡は、三輪山の北を流れる巻向川と烏田川にはさまれた扇状地に位置します。
さらに、三輪山の南を流れる大和川とがもたらした、古代では稀にみる水運の地です。
大和川は輸送の主役として、飛鳥時代にも活躍しています。
「纏向の津」は江包にあり、ここから40kmほど西で難波の津に着きます。瀬戸内海の入口です。
纏向は陸路の要衝の地でもあります。
南北の「山辺の道」と東西を河内と伊勢を結ぶ「横大路」が交わる、八十の衢と詠われた海拓榴市があります。
聖徳太子の時代ですが、海拓榴市では608年、随の国使・裵世清が瀬戸内海を渡り、難波の津にて降りています。
さらに、大和川を遡り、此の地おいて大歓迎を受けています。
遺跡の話です。 V字形をした2本の巨大水路の発掘です。
幅5m、深さ1.2mで、両岸に矢板を列ねる護岸工事がしてあります。
発掘は250mですが、全長は合計で2600mとなるようです。
北溝は旧河道から南西に流れて大和川へつながる1300mです。 高低差6.4m。
南溝は箸墓古墳の東方の巻向川から取水し、北溝と合流する1300mです。高低差13m。
此の水路の目的は不明との事です。高低差があるので運河ではない。
水路本体だけで、枝分かれする溝がないので、農業用の灌漑でもない。不思議な水路です。
余計な話ですが、説明図を見るとV字形の交点の内側の角度が60°です。
箸墓古墳に向かう南溝と、大和川に向かう北溝との長さが共に1300mですので、
大和川の合流点と箸墓古墳を東西に繋ぐと、此の場所で正三角形を作ろうとした様に、私の眼には映じます。
先程、農業用灌漑ではないと断定したのは、水路に枝溝がない事を理由にしましたが、
実は耕作したと思われる田畑がないのです、出土した道具も鋤(土木用)が95%、鍬(農業用)が5%で、
明らかに現代の公共事業であったと思われます。
土器の話です。
出土した土器:纏向Ⅱ類(210~250年)の15%に当たる123個の出身地が地方だったからです。
東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、その他は、吉備・近江・関東・播磨・瀬戸内・紀伊系が24%です。
九州系は皆無です。これらの外来系土器が大量に流入した背景には、労働力が畿内では不足して、
地方の力を借りたか、招集したかだろうと推測されています。
ちなみに、纏向Ⅲ類(250~270年)では、外来土器の割合が30%になります。
此処で一言、土器が勝手に来たのではなく、地方の労働者が生活の必需品としての土器と
一緒に来たと考えて下さい。
それと、東海系49%の数字に注目して下さい。 東海と云うのは、範囲を限定すると尾張の国の事です。
神話の日本武尊が熱田で「草薙の剣」を置いたのも、672年の壬申の乱で大海人皇子が東国を目指したのも、
尾張の国です。 ヤマトが大和たり得て継続出来たのも後背地として、
尾張の国のバックアップがあればこそだと考えています。
此の遺跡から南に見える巨大古墳が、ヒミコの墓として有名な箸墓古墳です。
北に纏向遺跡、南に箸墓古墳と並んだ姿こそは壮観です。
邪馬台国が此処に有りと実感できるロケーションです。
遺跡から見える箸墓古墳に心を奪われてしまいました。 精神状態は超の付く「ハイ」と言えます。
遺跡の後は古墳の見学になりますが、その前に邪馬台国の話をさせて下さい。
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