先日たまたま或る方のブログを拝見していたら、この様な事が書かれておりました♫
「理解する事は力である。けれど、世の中には『解けない苦しみを自覚する』よりも、『解けない事実に知らぬフリをする』事を選ぶ人の方が断然多い」
これを読んで私は、先日自分が会話した知り合いの方お二方が、それぞれ別々にですが私に同じ事を話されていた事とリンクするなぁと思いました。
( ・・) ~~~
彼女達は(それぞれ)言うのです。
「エリカさんは色々なものを勉強していて深い理解を得られている分、逆に色々なものが視え過ぎて大変だね~~~」と。
(・。・;
そして一人の方は、
「自分もエリカさんの様に色々勉強した方が良いと思うけれど、私には時間が無い」と言い、
もう一人の方は、
「自分もエリカさんの様に色々勉強した方が良いとは思うけれど、私は難しい事を考えるのが苦手で億劫。 (※こちらの方の方が自分に正直で良いですね~♫)」と仰られておりました。
(^^ゞ
そして「私には時間が無い」と話された方は、
「私は難しい事は分からないけれど、日々を感謝で明るく楽しく過ごし、人としていつも善い人でいようと心掛けて生きるだけじゃ駄目なの?」と質問され、
「難しい事は苦手」と話された方は、
「私は難しい事は分からないけれど、毎日を感謝で楽しく、できるだけ笑顔で過ごす事を心掛けて生きよう!と決めている。それじゃ駄目なの?」と質問されました。
この様に、全く違う場所で同じ質問を立て続けに受けたので「何か面白いなぁ♪」と感じた私。(笑)
(^^♪
そしてその時に私が感じた事は、彼女達は勉強(=真理を知る事)を難しいと感じていて「自分は勉強しようと思うと疲れてしまうから、(本音では)勉強しようとは思わない」という共通点でした。
( ・・) ~~~
そこで先にお伝えした「理解する事は力である」というのにリンクして来るのですが、それを私流に解釈させて頂くと、
「何かを深く理解しようとする時には、強い意志と忍耐力が不可欠になって来る」という事ではないかと思いました。
《 ゚Д゚》!
ではその「強い意志力」と「忍耐力」は一体何から生まれるか?というと、それはその人の中にどれだけ「真理」というものに対して「本気」という真摯さが有るか?という事に尽きるのではないかと私は感じます。
( ・・) ~ ☆彡
人というのは何事であっても「真剣に求める人」は努力しても疲れないのです。
もし疲れたとしても、それは「充実感を伴う心地好い疲れ」なので、回復も早いのです。
《 ゚Д゚》☆彡
反対に「億劫に感じてしまう人」というのは、努力する事は疲れる事なので、できるだけしたくないと感じている訳ですが、
ではその違いはどこから来るのか?と言うと、その答えのヒントは私が以前に書かせて頂いた「我慢と忍耐力の違い」というコラムの中に在ると思います。
(^^✿
昔から言われている「準備ができた時に、師が現れる」「求めよ。されば開かれん」等の格言を、もし自分の人生で実体験してみたいと思われる方に不可欠なものは、本気から生まれる「真剣さ」「真摯さ」であり、
そこから自然に「強い意志力」とそれに伴う「忍耐力」は生まれるものであり、それが「自発的な努力」を発露させ維持できる能力=才能に繋がる。
それを支えるものの根が「純粋な動機から生まれる情熱」というものであればあるほど、人は学ぶ事に楽しさを覚える様になるので、「努力」というものが積極的で能動的なものになり、
その結果として私達は「体感で知る喜びを味わう」という経験を得られるカラクリになっている様な気が致します。
《 ゚Д゚》☆彡☆彡☆彡
ですので「真剣に求める」人は、多くの方がイメージされる様な「努力=大変」という所で学んでいる訳ではないのです。
彼等が感じている「努力」という感覚は、努力を億劫だと感じている人達の感覚とは明らかに違うという事だと思います。
《 ゚Д゚》!?
彼等は好奇心を持って学ぶ事を楽しみ、苦しく感じる事でさえどこかで楽しんでしまう能力があり、そして理解できる事が増えて行く自分に喜びを感じているのです♫
《 ゚Д゚》!!
この様に何かに「本気・真摯・真剣」であればあるほど、「気力・体力」というエネルギーは、自然に自分の中から湧いて来る。
だから「疲れずに学ぶ」事ができる。
疲れずに学ぶものは「継続」するので、それを人々は「才能」と呼ぶ様になる。
つまり「才能=継続は力なり」という事ですね♫
(^^✿
ちなみに真剣な人達に取って真理を紐解いて行く作業は、「知れば知るほど自分の感覚がとても微細になって行く」という事が感じられるので、とても「楽しい」作業に成っているという事なのです♫
(^^♪
最後に、彼女達の「知らないままじゃダメなの?」という質問ですが…。
( ・・) ???
私は、やはり大人でしたら「知らないより知っているに越した事はない」と思います。
何故なら人間というものは、絶えず向上して行かねばならない様に生まれ付いているもなので、真理というものは誰もが必ず「いつかは理解して行かなければならない」ものではないかと思うからです。
( ・・) ~~~
「理解する能力を授かる時期」というのは、皆平等に過去の自分の経験努力から生まれる「徳」というものが大きく関わる事でもあるらしいのですが、
「知りたいか、知りたくないか」というのは個人の自由意思であり、それはご自分の自己責任でお決めになる事でしょう。
又それとは別に、私には (自分も含めて考えた時) 次の様な視野も有るのです。
それは、
「知っている人は、知らない人に嫉妬したり劣等感を持つ事は無い」けれど、
「知らない人が、知っている人に嫉妬したり劣等感を持つ事は多い」という視野です。
《 ゚Д゚》!!
そこを客観的にクールに、自分に置き換えて観た場合でも、
もし自分が「知っている人に対して嫉妬や劣等感を持ってしまう」のならば、
やはり「知って行く努力はした方が、自分の為なのではないか?」と私は考えます。
( ^^) ~ ✿
どちらにしても、ご自分が本当に人に対して嫉妬心や劣等感を感じずハッピーなのであれば、それで良い♫
私の最終的な答えは、やっぱり「皆、自由~~~♡」なのであります♫
☆_(_☆_)_☆
自然の中に、私達の人生のお手本が沢山あります♫
(^^✿
私は若い時から「自分の内臓をえぐってでも真理を知りたい!」という思いには、何故だかとても真剣な人間でした。
そして少なくとも自分が真摯に求めて努力して来た分は、「理解する」という所に来れているのではないかと思います。
( ・・) ~ ☆彡
…とは言うものの、常にこの世には「上には上がいらっしゃる」訳で、まだまだ知らない事も多い、否、知らない事の方が多い私でございますので、
これからも私の「真理を体験する」という "人生の財産" への情熱は、続いて行くのだと思います♫
☆_(_☆_)_☆
ちなみにこの自分の情熱が「一体何から生まれて来るのか???」というのは、自分ではさっぱり解らないのでありますが…。(笑)
(^^;
このコラムの執筆専門家

- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年