京都:詩仙堂 - 生涯現役 - 専門家プロファイル

中舎 重之
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稲垣 史朗
稲垣 史朗
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閲覧数順 2024年04月26日更新

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                し       せん      どう               

         詩    仙    堂






          京都市左京区一乗寺門口町が住所です。


          庭園づくりの名手である石川丈山が寛永18年         

     (1641)より隠棲した山荘跡です。         

     曹洞宗の寺で丈山寺と云います。          

     狩野探幽による中国の詩人36人の肖像と、         

     そこに石川丈山が詩を添えたことから、         

     詩仙堂と呼ばれるようになりました。         

     白砂を敷き詰めた唐様庭園が見所です。














       その名の起こりは、室町時代の流れに沿って支那の漢・晋・  

  唐・宋の詩人三十六人を選び、その肖像を狩野探幽に描かせて、

  石川丈山が自ら各々の詩人の詩を、その上に書き四方の壁に

  掛けたのが、詩仙堂という名の由来です。   

    石川丈山が59歳、寛永18年(1641)の建立です。    

  丈山は爾来この草庵に悠々自適の生活を営むこと31年、寛文  

  12年(1672)5月、90歳で没するまでの30余年間の、    

  隠居所とした庵です。ここで煙霞にうそぶき、風月に吟じ、琴を   

  撫してゆうゆう自適の生活を送ったようです。   

    石川丈山は天正12年(1583)に三河国碧海郡泉郷(安城市)  

  に徳川家譜代の武士の子として生まれました。  

  16歳にして徳川家康に近侍として仕えました。松平正綱や本多

  忠勝は、その親類筋であり、此の地方での一流の名族です。     

    33歳の時、元和の役(大阪夏の陣)に参戦して、勇躍先発の  

  功を立てましたが、それが抜け駆けの功を厳禁した軍令に違反  

  したとして、逆に責任を問われました。     

   そこで、石川丈山は大いに思う所ありて、武士を離れ、徳川家  

  を離れて京洛に入りました。そして林羅山と交わり、藤原惺窩の   

  門に学びて朱子学を修めました。 爾来、聖賢の教えを守り、学問の   

  探求に勉めました。猫のひたい程の土地を賜り隠棲の幽居とした   

  のが、此の詩仙堂です。


       と云う話は、表向きの顔であって、石川丈山の人物像から推測  

  すると、どうも怪しいものがあります。   

  詩仙堂には当時としては珍しい事ながら2階があります。   

   2階建ての家と云うのは、余程の特別な場合でないと見る事が

  出来ないからです。 

    此の階上に登った、ある人が、ある幻想を見たと言う話です。

  それは、2階の窓から見ると京都御所の森が指呼の間に見えて、  

  少し視線を伸ばすと二条城が見える。その二条城を眺めていると、  

  「城郭から此方へ、さかんに手旗信号を送ってよこした」   

  と言うお話です。確かに二条城とは何らか通信が出来るでしょう。


    此の詩仙堂の位置が宮中と比叡山、後水尾上皇の御遊行の地・  

  修学院離宮とを結ぶ道にあります。 さらに遠く北陸へと通ずる  

  極めて重要な抜け道の入り口にも当たります。     


    後水尾天皇といえば、勤王思想が強烈に起こり、政権が朝廷に

  戻るのではないかと思わしめた時代の天皇です。   

  天皇自身も政権が朝廷に戻ることを望んでいたが、徳川家に妨げ   

  られたのです。天皇が政権を一手に掌握した徳川家を心よく思っ  

  ていないのも当然です。   

  しかも、幕府の公武合体の政策で、最愛の人を奪われ、徳川二代   

  将軍秀忠の女・和子と政略結婚させられたのです。   

  そうゆう心の不満が、いつ爆発するやも知れず、それと不平分子   

  とが同盟しないでもない情勢でした。     

   そこで、彼等の動向を感知し、監視し、京都所司代に通告する   

  必要がありました。それには、此の地が無比の要害であったのです。     

    石川丈山が、そうした密命を帯びたか、どうかは知り得ないの   

  ですが、思慮遠謀の政治家ならば、此の辺に一石打っておくべき   

  碁盤の要であると思います。   

  もし江戸幕府が、京都所司代が、それに気づかなかったとしたら、    

  どうかして居ると嘲笑されても仕方がないでしょう。


       さて、話が少し横道に逸れた感があります。もっと楽な気持ち   

  で詩仙堂の庭を眺めましょう。   

  庭の左隅にある一本の山茶花は驚くべき巨木で、幹の回り5~6   

  尺は越えるであろうと思われます。10月の山茶花、庭の雪のよう  

  に白い砂の上に、それよりも、なを白い清らかな花びらを豊かに落  

  とすであろう此の山茶花の大木には、まず眼を奪われます。     

    山茶花の幾百本の枝により、その半分を覆われた庭の白砂、   

  箒目も美しく、観る者に何かしら厳しさを示しています。   

  此の砂と、その上に描かれた線形は、石川丈山の豊かな生活と   

  厳しき日常を暗示しているようです。  

  詩仙堂の主の賢人らしい毎日が偲ばれます。


      ツツジの刈り込みが、まあるく曲線を保ちつつ、奥の方へと沈み  

  行く庭の端を見て下さい。そこには何かが有りそうです。  

  人をして、其処へいざなう何ものかがあります。此の庭の魅力が   

  そうするのか、そうするから魅力があるのか、自分にはよく分かり  

  ません。 何とはなく心を騒がせるものがあるのです。

    庭の向こう側から、カーン、カーンと一定のリズムを保って、

  かすかな音がします。庭下駄を借りて庭に下りる事にしました。

  とにかく、その音のする方へと誘われました。 その音を立て     

  いるのはソウズ(添水)と云う名の仕掛けでした。     

  竹の一端を切り、一方から水を入れると水の重みで下がり、     

  入った水を吐き出して元の位置に戻る時に音を出します。       

    此の谷の底から響き出る音は、静寂の庭を破るものであり、     

  此の音が詩仙堂を訪れる人々に、かなり深い感銘を与えている     

  と思われます。


        なんとなしに心騒ぎする詩仙堂でした。   

  何となく心をゆさぶる詩仙堂でした。     

  此の庭の色、木立の調子。公武、文人墨客、僧俗、貴賤の数百     

  の人々が通うたであろう藪沿いの濡れた小径。     

  確かに、徳川時代が今もなを、昔ままに此処に逗留している。     

  露けき庭草には、今も昔のままに虫も集いている事でしょう。