- 曽我 武史
- TKC BODY DESIGN アスレティックトレーナー(鍼灸マッサージ師)
- 東京都
- あん摩マッサージ指圧師
2001年からのミズノで働くことと重なって、この年から本格的に日本代表チームの強化合宿や遠征にも行くようになりました。
結果的に今振り返ると2001年から2010年ユースオリンピックまで毎年のように海外遠征に行っていました。
2001年は、カナダエドモントンでの世界陸上
この時、為末大選手がはじめて銅メダルを獲得しました。
この時の光景は今でも思い出します。この功績は後世に語り継がれるほどの出来事でした。
陸上競技で世界3位ですからね!
実は、この決勝に送りだす前に私はストレッチを依頼され、サブトラックでのウォーミングアップの一環で行うストレッチや力を発揮するようなサポートをしていました。
いやぁ~懐かしいですね。
あれから10年以上が経つんですね。時が経つのが速すぎます!
そして
2002年釜山アジア大会(韓国)
2003年パリ世界陸上!
この時、短距離種目で初めて末續慎吾選手が200mで世界3位になりました!!
これはトンデモナイ快挙でした。
このときは、所属先の立場で末續選手をサポートしつつ、代表チームでもサポートしていました。
そして、夢にまで見た2004年は
アテネオリンピック!!
しかし、ここでもちょっとしたエピソードがありました。
それは、2001年からこれまで毎年日本代表選手団のチームトレーナーとして活動させてもらっていました。その心づもりで今年も・・・この流れでこのままオリンピックに行ける!?かと思っていました。
しかし、オリンピックは非常にセキュリティーが厳しくトレーナーが何人選手村に入れるかは代表選手が確定してから役員を決めていきますので何人選手団枠でトレーナーが入れるか判りませんでした。
実はシドニーオリンピック(2000年)は選手団トレーナーは1名でした。
もう一名は、サポートと云う形で陸連派遣という枠で選手村とは別のところに泊って現地サポートをしていた。このトレーナーは1名。日本選手団とは別行動でセsんふサポートに為に動き回ります。
ですのでアテネ大会でも何人のトレーナーが選手村に入れるかわかりませんでした。
しかも男性が行くのか女性が混じるのかも判りませんでした。
最終的には、女性アスリートの活躍が著しく代表チームは男性1名、女性1名の構成になることが決まりました。
その後、陸連トレーナー部担当者より一本の電話がありました。
その電話は、なんともう一名陸連派遣の枠で現地サポートするトレーナーを連れていくことになそうだとの連絡でした。
この時の嬉しかった気持ちは今でも忘れません。
が、話はこのまま簡単には決まりませんでした(涙)
それは
この知らせの後の一言で愕然としました。
トレーナーを派遣することは決まったが、誰を行かせるかはまだ確定していない!!とのこと。
えぇ~
またしても夢は実現しないのか!!!!!
この天国と地獄を一瞬にして味わったあの瞬間は今でも忘れることができません。
悔しいというよりは、残念な気持ちと。
まだまだ実力が足りないんだと思い、涙しました。
その時、自分で思ったのは
どうしてもオリンピックに行きたかったんだな!という気持ちでした。
そして、その話から時が経ち、また連絡がありました。
今度は、正式なオファーでした!!
とは行っても選手村に入れる選手団ではありませんが、サブトラックには入れるADカードが取得する事が決定し、派遣されることが決まったそうです。
ちなみに、選手村にも一日一回だけ入れる権利が確保できたとの吉報でした。
実はこのDAILY PASSというものは、日本選手団全体に何枚か決まっており、各競技団体でこの権利をと確保するいう仕組みになっています。
とまぁ~いろんな経緯があり、天国と地獄を味わいながらも念願のオリンピックにいくことが決まりました。
しかもオリンピック発祥の地アテネでの参加は、文句など云う事なしの夢の実現でした。
そして、長年サポートしていた選手がオリンピックの予選で日本記録を出し次のラウンドに進むなどトレーナーとしては充実して時間でした。
選手村以外(通称:村外)対応の選手サポートの場合、現地での行動は自分一人で判断して動き回らなくてはいけません。交通ルートも自分で確保しなくてはいけません。
約束事は、何時に選手村に行くのか(私が選手村に入れるのは朝の9時から夜の9時までです)
サブトラックで選手フォローするのは何時からが良いのかです。
やりとりは、ほとんどが携帯か会った時の打ち合わせでその都度決まっていきます。
ですので、私が選手村に入っていれば(朝9時~夜9時の間の限られた時間のみ)それ以外の時間帯は、選手村にいるトレーナー2名が深夜まで選手のケア(選手村内)をしていました。
朝は、だいたい選手村にいき夕方から夜の試合に合わせて選手と一緒に競技場にいきサブトラックでフォローをしていました。
こういったADカードの制限があるのも世界陸上とは全く違った厳重さがオリンピックにはあります。
まぁ~書きだすとまだまだエピソードはありますが、いろんな経験をした夢のオリンピックでした。
終わってしまえばあっと云う間の出来事ですが、あの会場での雰囲気は他では味わえないスゴイものでした。しかし、一つだけ悔しいことがあります。これは欲を云えばなんですが。
オリンピックには行きました。
しかも現地でサポートもし、選手村にも入ることができました。
それでも手にする事ができなかったものがひとつだけあります。
それは五輪マークエンブレムが入った公式アイテムは一つも手にすることはできなかかったことです。
陸上競技としてのJAPANのウエアは一式支給されました。
しかし、本物の五輪マークの入った正式なウエアは手にできませんでした。それでも現地では、一生懸命選手サポートさせてもらいました。
そして翌年からは、本当の意味での夢の実現へ向けて再スタートとなりました。
つづく
TKC BODy DESIGN
曽我武史
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