皆様はどなたかを怒鳴ったり、又はどなたかに怒鳴られた事はありますか?
はい!私はそのどちらも経験がありますし、そしてこれは多くの方もそういうものなのではないでしょうか?
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最近の私には(年齢と共に自分が練れて来たのか!? 笑)、お陰様で忍耐力というものがかなり身に付いた様で、その様な事に遭遇する機会は全く無いと言えるほどになりましたが、
若い頃にはその様な経験をした事から、最近は怒鳴る側と怒鳴られる側の意識の違いというか、そこから生まれるお互いの気持ちのズレですとか、お互いの勘違いから生まれる行き違いの様なものを感じさせて頂く事が多くなりましたね~。
ちなみに知的な心理学を持つ仏教の世界では、人間というのは業というエネルギーを持つ事から生まれて来ると言い、その業の中には三大煩悩である「怒り」「欲」「無知」が根強く在ると言われておりますが、
なるほど~。だから "人間は怒りながら生まれて来る" と言われるほど元来怒りっぽい訳であり、確かに多くの方達は、年中自分の不平不満を外側で起きる何かや誰かのせいにして、「怒り」を表に出している訳なのですねぇ!(笑)
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今までのコラムでも散々お伝えして来た様に「怒り」というのは沢山のバリエーションがあります。
外に向かえば「憎しみ・恨み・嫉妬・暴力 … etc.」など、分かり易い形として表現されますし、
内に向かえば「ひねくれ・意地悪・無視・落ち込み・悲嘆・自己憐憫・鬱 … etc.」など、内向的で一見「怒り」には見えない隠れ怒りん坊の方もいらっしゃる訳ですが、
今回は、非常に分かり易い「人を怒鳴るという怒りの行為」に付いて考察致してみましょう♫
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「怒ると叱るは違う」と言われます。
「怒る」というのは自分の私情を入れて感情的になる事。
そして「叱る」というのは、相手の立場に立って、相手の成長を促す慈悲からの行為を指します。
さて、ここで難しいのは「どこまでが自分の私情からで、どこからが慈悲の行為になるのか?」という判断です。
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皆様はどなたかを怒ってしまう時に、ご自分のその行為が相手を自分の思う通りにコントロールしたいという「私情」からの行為なのか、相手の成長を促す本物の慈悲の行為からなのかを、本当に見分ける事ができるでありましょうか?
残念ながら私達人間に取っては、「本物の慈悲を他者に持つ」というのは、頭で考えるほどそう簡単なものではないというのが真実です。
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相手を諭す時に相手を怒鳴りつけたり、「言葉の暴力」と言われる様な行為を好まれる方(それを自慢げに人に話すという事を厭わない方=それを快感と感じているからこその行為を好まれる方)が、世の中には結構いらっしゃるのですが、
何故その様な行為をされるのかと言えば、それはその行為をする人の中に「不安」という怖れが隠れているからであり、つまり怒鳴るという暴力的な行為は「怖れをエネルギーにしている」という方達がされる行為なのです。
《 ゚Д゚》!!
以前のコラムでも申し上げた様に、この様なタイプの方達は上から目線で「人を怒鳴る」という事で、相手からエネルギーを得ている方達です。(つまりエナジーバンパイアなのです)
怒鳴られる側に取っては「自分の波動を下げられてしまう」という事が殆どですが、これは怒鳴る人の波動に呑まれて自分のエネルギーを吸い取られてしまうからなのですね。
ですので「怒鳴る人」は元気になるけれど、相手やその場の波動は下がっているという事が起きるのですが、でも実はこの様なカラクリには気付かない事が人間にはとても多いのです。
それは怒鳴る側は相手から(自分には美味しい)マイナスのエネルギーを得て元気になるので、相手の波動を自分が下げている事には気付けないからですし、又エネルギーを吸い取られる側もそれに気付かず、相手が喜ぶ自分から放たれる "負のエネルギー" を自動的に与えてしまうからです。
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本物の慈悲であれば、例え怒鳴るという事が必然的にあったとしても、結果的には相手や全体の波動を下げる事にはならないものなのですが、
大概は本物の慈悲の行為には程遠く、怒鳴る人間は気付かずに、怒鳴られた者から「恨みを買ってしまう」という残念な行為になってしまうケースが殆どでしょう。(※エネルギーを奪われる側に取っては、自分の個性と人格を否定されるという、云わば生命力を奪われる行為をされる訳なのですから、恨まれてしまっても当たり前なのです)
でも殆どの人間関係は「利害関係」で繋がっているので、なかなか本音は表面には出て来ないものなのです。
怒鳴られる方も、怒鳴る人から何かしらの益を得ている限りは、どこかで自分の思考を誤魔化して「自分が得たいものの為に我慢する」という選択を致しますからね~。
そしてその自分の保身の為に、益を与えてくれる相手(怒鳴る者)には決して本音は言えず、相手が自分に要求して来るものを表面上は与えたりするのですが(※自分の保身の思考が先行して、これを自覚されておられない方も多くいらっしゃいます)、哀しいかな、怒鳴る側はそれをノー天気に鵜呑みにしてしまうという勘違いも良くあるからです。
そうして狐と狸の化かし合いをしている姿というのが、この「資本主義=物質至上主義」の作り上げる人間模様と社会と言っても過言ではないと私は正直感じております。(この社会システムが無くならない限り、この様な人間関係も無くなる事はないのです)
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その証拠に、今の世の中にはその様な「パワハラ」を行使する会社が "ブラック企業" などと呼ばれて問題視されるという現実が、現在この社会に溢れ返っているという事実があるではないですか?
雇われる側の事を、本当に親身に気遣っていたら「会社として成り立たない」という価値観を生み出しているのも「パワハラ」を生む原因にもなっている事は否めません。
資本主義の企業や会社というものは、「常に利益を上げなければならない」という不安や強迫観念に駆られる故に、そういう性質になってしまうのも必然ですし、
そうして雇われる人々は自分が「会社や企業の駒やロボット」の様に扱われる事により、人間らしい心から遠ざかってしまうという暗闇が現代社会にはあるのです。
(-_-;)
そしてこれは連鎖して行くのです。
会社の上司が自分の下で働く者を怒鳴りエナジーバンパイアすると、そこでエネルギーを吸い取られた部下は、家に帰って自分の家族に上司からされた同じ行為をして、そこからエネルギー補給をする様になる。
そうして親などからエネルギーを奪われた子供達は、学校などで自分より弱者である者をイジメたり、動物虐待などして奪われたエネルギーを取り戻そうとする。
こうして皆がエナジーバンパイアと化してしまうという負の連鎖ですね。
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…と、お話しが社会的な問題というものまで膨らんでしまいましたが(笑)、でも「怒鳴る」という暴力的でもあるこの行為は、人間にこの様な心理を生んでいるという事を、ちょっと謙虚に私達は知っておく必要があるのではないかと私は思います。
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「怒鳴る」という行為に宿る波動の殆どが、大変荒々しく重たいものであるという事を怒鳴る側が忘れると、その行為は相手の成長や尊重どころか、ご自分で自覚の無いまま「相手の個性と人格を非難・否定する行為」になってしまいます。
ですので「怒鳴り散らす」という行為は、例え社会的・家族的な立場は上であっても、自分と変わらない「一人の人格を持つ相手」に対して、あまり軽はずみに年中される行為ではないという事は確かでありましょう。
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本当に相手の事を思う行為であれば、怒鳴るという行為をしなくても相手の方から「学びたい」「見本にさせてもらいたい」と納得するものです。
又、相手に納得されないのは、怒鳴る側が相手の個性に合ったやり方を理解せずに「自分のやり方や価値観を押し付けている」という事も大いにあります。
何にせよ、「人を引っ張って行く立場の者は大変!」なのであります!(笑)
でも人の上に立つというならば、その苦労は当たり前でもあると言えます。
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月は、あなたの裏側(陰)を照らし出す不思議な存在です!?
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どの様な行為であっても、相手に感謝があり、本当に相手の事を思う慈悲の行為なのであれば、それは当事者同士で分かっていれば良いだけのデリケートなお話しであり、別に他者にわざわざ公になさらないでも良いのではないかな?と私は思います。
良く慈善事業をなさる政治家や社会的地位のある方達が、自分のイメージ戦略の為のアピールで、見える所でわざわざ「私はこんな善い事をしている人間なんですよ~」と公表される偽善行為というものがありますが、
この様な行為も、逆パターンで同じ様な臭いを感じてしまう私です。(どちらも、ご本人には優越感に浸れる気持ちの良い行為なのでありましょうが、本物の慈愛や慈悲からの行為でない限り、どちらのパターンでも第三者は違和感を感じてしまうものなのです)
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何故自分は怒鳴るのか?
その裏に在るものは何なのか?
自分が「怒鳴られて育った」から、それが良い方法と思うのか、
自分は「怒鳴られないと行動しないタイプ」だから、相手にも「怒鳴られるという事が必要」と思うのか、
又、自分が同じ様に怒鳴られたとしたら、その時にどの様に自分は感じるのだろう?という想像力を持てているのか、等々…を分析して行けば、
その裏に、その方の「どの様に育てられたのか?」という家庭環境が大きく影響しているという事が潜んでいるという事実が視えて来ると思います。(※この連鎖は、全ての人間に共通する事でもあります)
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ご自分のされる「怒鳴る」という行為が、無意識に相手からエネルギーを奪う為の単なる "恫喝" という自己満足の行為になっていないか、冷静に見極める必要が怒鳴る側には必要になります。
元々怠惰な資質を根に持つ私達人間は、時にそうした「発破をかけられないと目覚めない」という一面も確かにありますので、一概に怒鳴るという行為が全て悪いとは言い切れない場合もありますが、
どの様なものでも、その行為が最終的に全体の波動を上げるものに繋がって行くのか(=怒鳴った側が、怒鳴られた側に感謝される結果に繋がるのかどうか?)というのは、怒鳴る側の "人間性" にかかって来るのでありましょう。
( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡
このコラムの執筆専門家
- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年