奈良:唐招提寺・鑑真和上 - 生涯学習 - 専門家プロファイル

中舎 重之
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閲覧数順 2016年12月09日更新

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奈良:唐招提寺・鑑真和上

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          奈良:唐招提寺・鑑真和上の話  

   唐招提寺は正面の南大門から入るのがいい。正面から金堂に一歩いっぽと、近づく毎に視野いっぱい拡がる、

荘重な寄せ棟の大屋根の姿は、実にシンプルで豊かさとおおらかさを感じさせる。

天平という時代の精神性を凝縮して見せているかのように思います。 

  前庭の向こうに浮かび上がる、どっしりとした建物は正面に八本のとてつもなく大きい円い柱を配して、

揺るぎのない安定感を与えています。

ギリシャのパルテノン神殿の列柱を想わせる堂々としたフォルムです。


  唐招提寺は静かに詣でるのが良い。その美しさは建物を取り囲む森々と茂る老松の一画。

なんとなく崇高にして厳粛、ある種の冷たさの漂う樹林の中に、透明な音楽が奏でられているようです。

現実に聞こえる松籟の音や、梵鐘の声ではない何かなのです。


  この寺が、渡来の途上に潮水により失明された鑑真和上の私寺です。

渡来の時、鑑真和上は二十四人の随行者を伴っていました。

その中には僧尼の外に建築家、仏師、画師や玉造り人も写繍師も居りました。

彼等が此の新しい寺の建築に総力を傾けた事は想像に余りがあります。 


 日本の仏教は聖武天皇の時に未曾有の発展を遂げましたが、戒律が不備でした。

そこで天平5年(733)に二人の若き僧、栄叡と普照が入唐し戒律の師とすべき人を探すのが始まりです。

入唐9年目に授戒大師と呼ばれて世人から尊崇されていた名僧鑑真和上にたどり着きます。

そして揚州大明寺にて渡来を懇請します。

  和上は、「日本は仏法有縁の国であり、昔、南岳の恵思禅師が遷化の後、

日本に托生し聖徳太子となり仏法を興隆された聞く。実に仏縁深く仏土と言うべきである。

仏法弘通のために請を受けて日本に渡るであろう」  と承諾されました。 時に和上五十五歳。

その後、五度の渡航に失敗し、それでもなを日本への渡航を諦めず、

六度目に漸く成功し、九州薩摩に上陸しました。

その間十二年の歳月が流れ、和上はすでに六十七歳に成っていました。


  鑑真和上の将来品の中で最大のものは「薬」です。

和上自身が「薬」に精通しており、木根草皮を区分けし、「薬」としての効否を峻別された事です。 

日本人に極楽往生の宗教より、現世において、病気平癒の功徳を与えられたのです。

阿弥陀如来への信仰ではなく、薬師如来への信仰が基盤にあったと思われます。

仏教者はこうした現世の毎日に役立つ任務を持って、吾々に接してくれたのです。 誠に有り難いものでした。 

鑑真和上は渡来して九年目の天平宝字七年(763)の春に入滅されました。 享年七十六歳でした。

日本への渡来を決意されて以来の歳月を加えれば、和上の生涯の中でじつに二十一年の永きに亘り、

日本への結びつきがありました。不思議な深い仏縁と呼ぶしかありません。


  貞享五年(1688)、四十五歳の芭蕉は、「笈の小文」に綴った旅の途中で奈良に立ち寄り、

唐招提寺を訪れて鑑真和上の像を拝しています。

「招提寺鑑真和上来朝の時、船中七十余度の難を凌ぎたまい、御目のうち塩風吹き入りて、

終いに御目盲させ給ふ尊像を拝して」 という詞書きの後に、 

[ 若葉して 御目の雫 ぬぐはばや ] の句を残しています。

  お顔を拝しても、優しく慈悲に満ちた柔和な表情をされています。

清らかさがあり、幾度の苦難に挫けない剛毅さは表には現れていません。

見方によって、泣いておられるようにも、ほのかに微笑んでおられるようにも見えます。

芭蕉の眼には、盲いられた御目から清らかな涙が滴り落ちているかのように映ったのでしょう。


  鑑真和上の来朝により、日本人の心が、どのくらい豊かになり、どのくらい明るくなり、

開かれたのか、はかり知れないものがあります。

  私は、和上をこころに描きながら、しずかに唐招提寺を辞しました。

日も西にかたむき、秋篠川のほとりには、人かげもなく、ひっそりとしており、

自分の思索を妨げるものは、何もありません。 

まだ、全身に いにしえ の余香をのこしたまま、

西の京を辞去して出発点である近鉄奈良駅へと向かいました。


                                        1964年 春  中舎重之









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