- 小口美徳
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【前編のお話】
当時、私自身も帰宅困難者となり、
真夜中に何とか動いている電車を乗り継ぎ、最後は渋滞する国道を2時間半かけて歩いて帰りました。
自分の家族とも連絡が取れない状況で、家に帰ることのできた私は、震源地に近い福島の親戚に安否確認を行いましたが、全く確認できず。
やっと連絡の取れた親戚の話だと、皆無事でこれから避難所に着の身着のままで向かっているとこのこと。
財布にも少額しか入っていない状態で避難所に行ったそうです。
3月14日
私は仕事を休み埼玉に住む従兄弟と従兄弟の勤めている会社の社長さんと一緒に、当時大変不足していたガソリン200リットルをかき集め、被災地へ向かう途中で何かあってもいいようにと一週間分の食料を持ち、避難所にいる親族を迎えに国道4号線をひたすら北へと車を走らせました。
被災地へ近づくにつれ、壊れた家屋が目立ちはじめます。
アスファルトの道路が捻じれていたり、寸断されていたり、1m以上の段差があるなどパンクしないように運転しました。
被災した時間にいた場所によって緊急に避難所が振り分けられたので、地域単位・家族単位で避難所にいるわけではありません。
親戚の中にも、子供と離れ離れで避難をしなくてはいけない状態です。
まず私たちは連絡の取れている親戚の避難所に向かい、
体育館で毛布に包まっている従兄弟を見つけました。
約5年ぶりに会う従兄弟に
「とにかく無事で良かった」
それだけで言葉がありませんでした。
その後、脳梗塞で身体が不自由な伯父のいる避難所に向かい、ワンボックスと7人乗りの乗用車は定員。
たくさん親戚がいるのに、みんなを乗せて帰ることができないのが辛かったです。
帰りにトイレ休憩をしている時です。
福島第一原発の二号機が水素爆発をしました。
郡山市を過ぎていたので直接被爆することはありませんでしたが、とても怖い思いをしました。
それから双葉町に住む親戚は、町ごと埼玉スタジアムへ集団避難します。
福島県の田村市の避難所で会えなかった母方の親戚に会いにいきました。
スタジアム入口には、たくさんの支援物資とたくさんのボランティアの方がおり、日本全体の震災に立ち向かう助け合いの気持ちに感動しました。
大熊町の避難先『会津若松』へも行きました。
ここでも体育館に大量に積み上げられた物資を見ました。
自分も被災しているのに、他の被災者を誘導する大熊町役場の方。本当に頭が下がります。
(つづく)
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