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- 宮崎 隆子
- (日本産精油スペシャリスト)
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諦観というと
なにかあきらめの境地
のような
イメージが
ありますよね。
言葉の意味は
環境や
年代とともに
多数の使い方で
微妙に変化していきます。
特に日本語は、
劇的に変化というより
多く使われる言い言葉は
悪い意味に変化し、
意味の一部をとって
変化するというような
感じがします。
諦観の場合
第一義が
本質を見ること
ですが、
第二義が
悟りあきらめること
だったりして、
雰囲気
第二義で
使われることの数が
多くなっていると
思います。
あきらめる
という言葉を調べてみると
第一義が
あきらめる
第二義が
思い切りとか断念とか
断念は
思い切るとかあきらめる
ということになり、
ここで第二義の
グループはぐるぐるまわるので
言葉の多数派の
傾向のチェックは
終了。
本質を見ることは
思い切りが
必要・・・
ということだとすれば
自分の幸せという
本質の見極めには
思い切りの覚悟が
いるのか~と考えられます。
一見、中学生の言葉
遊びのようですが、
案外、
経験にすれていない
くもりなき眼を
獲得するのは
そんな
「遊び」から
直感することも
時には
必要なのかも知れません。
ボキャブラリーは
思考を深くしますよね。
教育の一歩は
共感も大事ですが、
その本質を
非指示的に醸し出せなければ
あやしい。
それは、
教育者というよりも
あるタイミングで
その人が
世の中で最初に会う
人
の責任でしょう。
各々の精進が
自分の幸せにつながる
道理かもしれません。