ラベルはどうでもよいのです。
あなたが何に属しているかとか、何を信じているかなど形式はどうでもよいのです。口先だけの言葉はどうでもいいのです。大切なのは行ないであり、行為であり、生き方です。
つまり各自の毎日の生活そのものです。
私は因果応報という絶対的な因果律を説きます。
つまり誰1人として、因果律という摂理の前に、自分の生き方をごまかすことはできないということです。その絶対的な摂理とは、自分が自分の救い主であり、あがない主であり、自分の過ちは自分が罰を与え、善行の報いも自分が与えると説きます。
また因果応報の摂理は、自動的、機械的に作動すると説きます。
すなわち、親切・寛容・慈愛・奉仕の行為が、自動的にそれに相応しい結果を自分にもたらして霊性を高めます。一方、利己主義・罪悪・不寛容の精神は自動的に自らの霊性を下げてしまいます。
この法則は誰にも変えることができません。
つまり、例外や特別な赦免などないということです。この神の公正が全宇宙に行き渡っています。ですから、死の床での悔い改めも通用しません。
知識には責任が伴うというのが、私の一貫したテーマです。
知識による恩恵を受けたならば、今度はそれをいかに生かすかという責任が必ず生じてきます。そこに、あなたの自由意志による選択が問われます。それがあなた自身の責任をはかる尺度となります。あなたがもしも、霊的真理についての知識を手にしながら、それに適った生き方をすることができないならば、あなたはそれ相応の代償を払わなければなりません。
つまり、”知らなかった”という言い訳は許されないのです。知識は自動的に責任をもたらします。真理を知った者はそれだけ余分の物を要求されます。それは言い換えれば、その人への大切な信頼にほかなりません。
1人1人の霊的自我の中に、絶対に誤ることのないモニター(判断装置)が組み込まれています。正常な人間である限り、つまり精神的・知的に異常または病的でない限り、自分の行動と思考を監視する絶対に誤ることのない装置が内臓されているのです。
それがいかなる悩みや問題に際しても、そのつど自動的に、直感的にそして躊躇することなく、あなたの判断がどうであるかを告げます。それを人間は時としてもみ消し、言い訳や屁理屈で片付けようとしますが、しかし内なる真の自我はちゃんとわかっています。
自分で正しいと思うこと、自分の良心が指図することを忠実に実行することです。
なぜなら最後は、自分が裁判官となるからです。振り返ってみるとき、正しかった、あるいは間違ったと思うことがあります。ですが動機が人のためということであれば、たとえ間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象となります。
何事も、動機がその価値を決めます。
慈善事業に気前良く大金を寄付する億万長者は、その行為によっては少しも自らの霊性が成長することはありません。反対に、これは絶対に意義あることだと信じて無い金をはたいて援助する人は、その動機のゆえに霊性が伸びます。苦労する人を見て止むにやまれぬ気持ちになるのは、霊的属性の1つです。つまり愛や情け、友愛、同情、哀れみ、親切心、奉仕の精神は、霊の持つ属性です。それらを表現している時のあなたは、霊的自我を表現しているのです。
私は、”悪”とは同じエネルギーの用途を誤っていることであり、ゆえにそれは許すべきではないという考え方をとります。そうした悪い人間たちが表現しているエネルギーは、成長と改善のために使用することができます。わざわざ自分から、悪人になろうと思って利己主義者になる人などいないはずですが、そういう悪い人間になってしまうというのは、霊的成長が起こらない幼児なのです。
聞き分けのない子どものようなものであり、目に見え、手に触れるものだけがすべてだと考えるので、物質的世界が提供するものを所有することによってだけしか、自分の存在を主張できない哀れな人間です。つまり利己主義とは、利他主義が方向を間違えたに過ぎません。
故意に悪いことをするというよりも、無知から犯す間違いのほうが多いものです。
全体からすれば、”悪人”と言えるような人間はごく少数派に属しています。注意するべきことは、他人の些細なしくじりを裁くために、大鉈(おおなた)を振るうようなことは慎まねばなりません。なぜならそういう人を憎むということは、それも罪を犯していることだからです。良心が咎めることをするのは、全て霊的摂理に反します。
”悪”とは何かということを、見極めておく必要があります。
地上生活の究極の目的は、”死”とあなた方が呼ぶ現象のあとに、待ち構えている次の生活舞台に備えて、内なる霊性を開発することにあります。そして霊性が開発されればされるほど洞察力が深まります。つまり、霊性が深まり、進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり、憐れみを覚えるようになるのです。
ですがこれは、悪や残忍さに対して寛大であれということではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる、一種の”我慢”です。
なぜなら人間はしばしば、自分のしていることの意味が判らず、無知から行なっていることがあるからです。そこはあなたの我慢のしどころです。ですがそれは、悪を放任し、黙認することではありません。もしそうするならそれは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。真の意味の寛大さには洞察力が伴います。
罪悪は、それを犯す側だけでなく、それを受ける側の双方を傷つけてしまいます。
その原因はしばしば、故意にではなく、無知やかんしゃく、短気、せっかち、負けん気などから犯しているものです。つまり自制心を欠き、冷静さを失っているのです。後になって”しまった”と思うようなことを、考えて口に出し、行なっているものです。
世間がどう思おうとも、周りの人が何と言おうと、自分が正しいと思うことをしてください。そのほうが都合がいいとか得だからではなく、あなたの心の奥で「そうするべき」と確信したことを、良心がそう命じていることを実行すればいいのです。良心こそが内なる声であり、進むべき道を指示します。
良心が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが分かっていても、迷わずに従ってください。なぜなら最後には必ずいいようになるからです。決断を下さねばならない事態に至ったときは、それが特定の少数の人々のためにではなく、全部の人、あるいはできるだけ多くの人にとって益になるように、それを動機として判断してください。
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