再び子供になるためには、子供は世間に毒される必要がある - 文化・芸術全般 - 専門家プロファイル

舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
東京都
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対象:文化・芸術

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再び子供になるためには、子供は世間に毒される必要がある

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今回のテーマを目にした途端、私は「深くて凄く好き♡」と思ってしまいました♪(笑)

(^^✿

 

そしてその内容を読んで思い出したのが、これはかれこれ16年前も前のお話しになりますが、私は以前に文芸社様から「人生の奥行き」という本を書かせて頂いた事があり、

 

その中で、

 

 

人間は皆、生まれた時はピュアだ。

だからピュアな部分を持っていない人間はいない。

 

だが子供のピュアと大人のピュアは違う。

周りに守られている子供は、ありのまま、生まれたままであれば良い。

 

だが大人は違う。

もし大人が生まれたままだとしたら、それはただのわがままな、大人の顔をした子供。

 

 

大人は人生で色々なものを見せられるのだ。

その中には、醜いものや汚いものも必ずある。

何故なら、自分も含めてどの人間も人間である以上、必ず両面を持っているからだ。

 

きれいなだけも汚いだけも有り得ないのが人間。

その中でピュアを保ち続けるには、物事におもねらず流されない強さと賢い眼が必要だ。

 

だから、大人のピュアには奥行きがあるのだ。

 

 

というメッセージを書かせて頂いていた事でした。

(^^✿

 

そして私が今回このテーマとその内容に触れた時に感じたのが、「ここでは私のお伝えしたい事が、もっと分かり易く、より噛み砕いた様に表現されている!」という感動でしたので、皆様にもご紹介したいと思いました♡

☆_(_☆_)_☆

 

OSHOのメッセージはとてもスマートでありながら、まるでポエムの様に美しく、いつ読んでも感動が薄れる事がないのは、彼のメッセージにはいつも宗教という枠を超えた"真理"という普遍的なものが存在するからでなのでありましょう~☆彡

(*^^*) ~ ☆彡

 

 

 

 

再び子供になるためには、子供は世間に毒される必要がある 

                               覚醒のひかり さんより抜粋・編集

 

 

質問者

「何故愛は、霊的な成長においてそんなに大切なのですか?」 





OSHO 

 

愛と気づきは、両極の最高の高みだ。 

ちょうど、男と女、生と死のように、 

暗闇と光、夏と冬のように、 

外と中、陰と陽のように、 

身体と魂、創造と創造者のようにだ。 

 

 

愛と気づきは、両極の高みで、 

変容が起こる最後の極みだ。 

愛には2人が必要だ。それは関係性だ。 

それは外に向かう。外に向かうエネルギーだ。 

 

 

相手が、愛される人がいる。 

相手が、あなた自身より重要になる 

あなたの喜びは、相手の中にある。 

 

 

もし相手が幸せなら、あなたも幸せだ。 

あなたは相手の一部になる。 

ある種の依存関係がある。 

そのように、相手が必要だ。 

相手なしでは、あなたは寂しさを感じる。 

 

 

気づきは、完全に独りになって、 

注意深く自分自身とともに、 ただあることだ。 

それは関係性ではないので、他者は全く必要ない。 

それは外側に向かうことではない。 

それは内側に向かうことだ。 

 

 

愛はあなたの存在から出てくる光の動きだ。 

気づきは、それとは反対の動きで、 

源へ再度戻る光の反対方向の動き、 

源へ帰る動きだ。 

 

 

これはイエスが悔い改めと呼ぶものだ。 

・・・これは言葉どおりの悔い改めるという意味ではなく、 

源へ帰るという意味だ。 

 

 

パタンジャリはこれをプラチャーラと、家に戻ってくることと呼ぶ。 

マハヴィーラはこれをプラチクラマンと、自分自身に帰ることと呼ぶ。 

環が完結したという意味だ。 

 

 

黄金の華の秘密は、あなたのエネルギーの逆向きの動きに基づいている。 

完璧にそれに基づいている。 

しかし、この逆向きの動きが可能なのは、 

あなたが外に向かう動きをしていたときだけだ。 

 

 

あなたは愛の中に入っていかなければならない。 

あなたは、自分自身にたどり着くために、関係性を持つ必要がある。 

これは逆説的に見える。 

 

 

再び子供になるためには、子供は世間に毒される必要がある。 

無垢は、再び本当の無垢になるためには、 

ずる賢さのあらゆる騒ぎに入っていく必要がある。 

 

 

子供は無垢だが、それは無知によるものだ。 

聖人も無垢だが、それは無知によるものではなく、 

経験によるもの、成熟によるものだ。 

 

 

彼は再び無垢になるが、その再びなることが非常な重要性を持っている。 

・・・それ以上、彼の無垢を乱すことはできない。 

子供の無垢は乱されざるを得ない。 

全てのアダムはエデンの園を、無垢の世界を去る必要がある。 

 

 

全てのアダムは、世間に、その泥沼に出ていく必要がある。 

何故なら、そうして初めてあなたは成長し、 

成熟することができるからだ。 

 

 

そこでだけ、あなたは学び、 

そこでだけ、対比することによって無垢の美しさを見、 

そこでだけ、あなたは無垢の輝きを理解する。

 

 

あなたが無垢の美しさを学んだ日には、 

あなたは、気づきを持つようになっている。 

あなたは、家に帰ってきている。 

 

 

もしアダムが天国を去らなかったら、彼はキリストにはなれない。 

彼は子供のままだ。 

 

 

アダムは、外側への動きを意味している。 

キリストは、内側への動きを意味している。 

アダムは愛を意味し、キリストは気づきを意味している。 

環は完結した。 

 

 

アダムとキリストの違いは、その方向だけだ。 

アダムは外側に向かい、その同じ人が反対に向きを変え内側に向いたら、 

彼はキリストになる。 

アダムは潜在的なキリストで、キリストはアダムが実現されたものだ。 

 

 

愛はとても本質的なものだ。 

あなたは、自分を得るために自分を見失う必要がある。 

愛は、自分を完全に失うことを唯一可能にするものだ。 

あなたが完全に失われたとき、 

あなたは自分がしたことを思い出すことができる。 

 

 

それはいつも大海に住んでいる魚のようなものだ。 

彼は決して大海に気づかないし、その祝福に気づくことはない。 

彼は網に捕まる必要があり、 

漁師が彼を拾い上げ、砂浜に放り出す必要がある。 

 

 

その砂浜で、暑い日の下で、 

彼は初めて思い出す。 

彼は何年も大海に住んできたのに、大海には気づかなかった。 

全く気づかなかった。 

 

 

今や渇きが、暑さが、大海を意識させる。 

大海に帰りたいという大きな渇望が起こる。 

それが大海にジャンプして戻るためのあらゆる努力を作りだす。 

 

 

それが探求者の状態だ。 

大元の源へ帰りたいという渇きだ。 

そしてもしこの魚が大海に再び戻ることができたとしたら、 

あなたはその祝祭がどれ程のものか想像できるだろうか? 

 

 

その魚は大海にずっと住んできて何も祝祭はなかったというのに。 

今や祝祭の可能性がある。 

今はとてもうれしく、祝福されていると感じる。 

 

 

霊的な成長のためには、愛は必要だ。 

更に愛は鏡として働くので、それ以上のものだ。 

誰かあなたを愛する人の目の中に、自分の顔を見たことがなかったら、 

あなたが自分自身を知ることはとても難しい。 

 

 

ちょうど、自分の肉体的な顔を見るのに鏡を見る必要があるように、 

自分の霊的な顔を見るためには、そのような鏡が必要だ。 

 

 

愛は、霊的な鏡だ。 

それはあなたを育てる。 

 

 

それはあなたを統合する。

それはあなたが内側の旅する準備を整える。

 

 

 

 

 

「 Winter Aconite 」

CICELY  MARY  BARKER  「Flower  Fairies  シリーズ」より

 

 

 

今回のテーマは凄く深くて、ピンと来る方とそうでない方といらっしゃるかもしれませんが、これは正に私達人間が生きて行く上の"人生の普遍的なテーマ"とも言うべきものが語られている様に私は感じました♪

(*^^*) ~ ♡

 

守られていれば安泰かもしれませんし、非常に楽かもしれませんが、

 

逆から観たら、自分に自立した能力があるにも関わらず、何かに守られてばかりいる人間というのは「自ら成長する機会を奪われている」という環境であるとも言えますし、

 

中には社会的背景や洗脳から、そういう環境を強いられて窮屈で苦しい思いで生きているという方達=与えてくれる存在に支配されて生きておられる方達というのも、世の中には多くいらっしゃいますよね?

 

そういう「自ら何かを創造したり、自立した発動ができない受動的な生き方」というのは、例え安心感は得られたとしても、そこから真の"充足感"や"自尊心"というものを得る事ができない人生でもあるので、

 

そういう方達は、いつも心のどこかにモヤモヤと晴れないものがくすぶっていて、本当の意味での「生きる喜び」から得られる"感謝"を味わうという経験を得る事は不可能になってしまうのです。

(-_-;)

 

何故なら生きる喜びや自尊心を持てない者が持つ感謝とは、頭で無理矢理「与えてくれる人に感謝せねば」と"思わなくてはならない"というものになるので、本物ではないからです。

 

そしてこれは「与えられる側」にしか分からない苦労や苦しみと言っても良いかもしれません。何故なら与える側には自由があるけれど、与えられる者には自由がない事が多いからです。

(・。・;

 

 

 

そしてもっと最悪なのは、与えた側が上から目線で「与えたのだから感謝しろ!」という事を与えた相手に強要し、与えるという事を経験させてくれる存在に対して、感謝を忘れてしまうというケースでしょうか。

 

本来「与える」という無償の愛の行為は喜びを伴うものなはずですが、中には与えた事で、年中与えた相手に怒っている方=怒りながら与えるという方がいらっしゃるのは、その奥に自覚のない「与える事から生じる相手への支配欲(※愛ではないもの)」が在るからです。

 

世の中には

 

与えたのに感謝されない

与えたのに、逆に相手に恨まれてしまう

与える事で、与えた相手が自分の思い通りにならないと激しい怒りを感じる

 

与えてもらっていても幸せや充足感を感じない

与えられる事は、自分の自由を奪われ支配される事と窮屈に感じてしまう

与えてもらう事で、自己否定や罪悪感を持たされる様に感じて委縮してしまう

 

という経験をされる方はゴマンといらっしゃる様に私はお見受け致しますが、

 

それは「与える側」も「与えられる側」も、このカラクリ(※人間は物質的に豊かなものを与えられても、その事で自分の自由を奪われると感じさせられる事から恨みを持たれてしまうというカラクリ)に気付けない方達が、この世には如何に多いのかと言う事を物語っている様に思います。

( ・・) ~ ★

 

 

 

私達人間が抱えるお悩みというものは、個々色々なケースが存在する様に見えますが、実は根の所では同じものから発生しているので、

 

個々の問題を各々自力で理解し解決するには、今回のOSHOのメッセージは大いに役に立つのではないかと私は思います。

(^^✿

 

 

 

【追記】

"感謝"というものをもっと深く理解する為に、以下のコラムもお役に立つかもしれません♪

      ↓       ↓       ↓

人に「感謝を求める」人は、自分が人や自分に「感謝をしていない」人

 

 

 

 

 

 

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長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年