理解してもらいたい相手であれば、なおさら、
つらさは増します。またつらいと思っていれば
余計つらい。
人間なら、ミスコミュニケーションはときに起こるもの。
私は個人的には、そもそも日本語が、誤解を招きやすい
言語でもあるのだと思います。平安時代の和歌のように
推し量って理解する遊び心みたいのがあるのかしら。
主語は飛ばす、目的語は飛ばす、所有格も抜かす、
修飾部分がどこにかかっているか明確でない。語順の
ルールも甘い。同音異句もすごく多い。
だから、内容全体から意味を汲み取らないと
いけないことも多いです。
ゲルマン語系、ラテン語系では、これはありえないこと。
なんで日本語はこんなに文法が無視されても文章に
なるのでしょ。
話を元に戻しまして。
理解してもらえないことは、確かに悲しいのですが
自分を責めても、相手を責めても始まりません。
一人で怒ってしまっても、怒る分だけ自分が損です。
まずは、誤解される・することは、どんなに
こちらが良い意図、意思・意志をもってしても、
おきるものなのだ、と理解しておきましょう。
どんなにコミュニケーションスキルを磨いたとしても
これは一人でやるものじゃなくて、相手がいるもの
だからです。
人の物事の受け取り方、考え方、見方は違うし、
お互いの余裕のあり・なしにもよって、同じものでも
違って見えてしまうから。
理解してもらえないことをパーソナルに感情的に
受け取ってしまいがちですが、そうする必要も
本当はないのです。
また、どちらかが悪いとか悪くないの問題に
してしまうと、きりがありません。
確かに、つめて考えればどちらかが非があることは
見えてくるかもしれません。でも、責めても何も
変わらないし、相手を追い詰めるだけ。
もしこちらに非があったとして責められたら
それもつらいもの。ミスコミュニケーションというだけで
居心地がよくないので、傷にさらに塩を塗るようなことは
しなくても良い、と少し心を大きくして考えましょう。
そして、少し距離(時間や空間など)をおいて、何が
起きたのか、第三者の目で見てみます。
さらに、相手の立場に立っても見てみるといいかも。
昨日のお話のように、自分がどうしたかったのか
どうなってほしかったのか、よく考えてみるのも手です。
何が起きたのかの事実と、それに対して自分が
どう感じたのかの感情を分けてみると、少し
冷静に見られるようにもなります。
相手に謝ったほうがいい、それができる状態なら
すればいいし、もしかしたら、それができない状態も
あるかもしれません。
それなら心の中でしっかり謝って、いつか解決できるよう
いつか理解しあえるよう、願っておくことで、それで
自分が満足するようにしてみましょう。
謝っても何も変わらないときもありますね。
誤解を招いたとき、理解しあえないときなどは、
ひっくり返してみれば、人間関係をレビューする
絶好のチャンスです。
良い方向に持っていければ、深めることができるし
いろいろやっても何も解決しないなら、もしかしたら、
よくない人間関係を断ち切るために必然的なこと
なのかもしれません。
本当の友人だとか、本当に大事な人が誰かを
見極められるかも。
現実的には、自分の成長やニーズに合わせて、
周りの人間関係も少しずつ変化していくもの。
ときに、今ある人間関係から脱皮する時期も
やってくるのだ、と考えてみてください。
少しは気楽になれるはず。
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このコラムの執筆専門家
- 小倉 美紀
- (パーソナルコーチ)
- エナジー・コーチ エナジー・コーチ
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