驕り高ぶる心
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「驕る平家は久しからず」
こういう言葉がありますが、人間の中には様々な驕り高ぶる心が隠れているものです。
「驕る」というのは、「思い上がる」というような意味があります。
お金があることを驕ったり、地位や名誉があることを驕ることがあるのはわかりやすい例です。
物質や権力だけでなく若さを驕ることもあります。
私は以前、特別養護老人ホームで勤めていたこともありますが、老いると身体機能がどうしても衰えてくるものです。
前を歩いている老人の足が遅かったり、耳の聞こえが悪かったりすることで、邪魔者扱いをするような気持ちを持つこともあるかもしれません。
誰しもが年寄りになるものなのに、今だけの若さを驕っても何にもなりませんよね。
一方、年寄りは年寄りで自らの経験を驕ることもあります。
何かを問われて「今時の若い者にわかるか!」と、年齢の差のことで驕ってしまうこともあるかもしれません。
また、自らの健康を驕ることもあるでしょう。
「体が弱いのは運動が足りないからだ!」などと、自らが健康なのを良いことに、病人への配慮が足りなくなることもあります。
そのような驕りの気持ちを無くすための仏教の学びなのですが、その学びの中にも驕りという罠が待ち構えているのです。
「自分はこれだけのことを知っている。」と驕り高ぶる気持ちがあるのでは、何のために学んだのかもわかりません。
驕ってはいけないという話を聴いことで驕ってしまうというのは厄介なことです。
自分の若さや体力、財力や知識を驕り、相手と比較して自らの方が上だと思うことで満足するとは、何と小さな器なのか。
私も含めた凡夫というものは、あちらこちらにある罠にかかり、迷いから抜け出せなくなっているネズミのようなものなんですね。
華厳宗の僧である明恵上人が、こんな言葉を残しています。
「『物をよく知ると驕り高ぶるようになるものだ。』と世間の人はよく言うが、それは間違っている。本当にものを知っていたならば驕り高ぶる心こそが無くなるものだ。驕り高ぶる心が起こるのは、知ったつもりになっているだけで、本当の所は何もわかっていないということである。」
仏教というのは自分を明らかにするものであり、自らの博識を驕るためのものではありません。
驕り高ぶる心を持っているのは自分があるからであり、無我の境地がわからぬ限り、この世の苦悩から逃れることは出来ないんですね。
また自分の博識を驕るばかりに、自分の知らないことを素直に聴く耳を持つことも出来ません。
何かを知っている人を有り難がる必要も無いし、知識が無くとも心穏やかに暮らしている人こそが尊い存在なんです。
悟りの道を求めて学び始めたのに、知れば知るほど、当初の目的を忘れてしまう…。
自らがどこかで驕り高ぶってないか、時には見つめ直してみるのも良いのではないでしょうか。
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