大園 エリカ
オオソノ エリカ「他人を認められる」様になる時
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これは前回の「好き・嫌い」のテーマにも繋がっておりますが、今回は「人を認める」という、心の機微に付いてお話しさせて頂きます。
_(_^_)_
人間というものは誰しもが例外なく、自分が一番大事で、自分の事が一番愛おしくて堪らない性(サガ)というものを、生まれつき持っています。《゚Д゚》!
でなければ、
「自分の都合しか考えない」という、傲慢さや冷酷さとか
人を認めたくない感情から生まれる「嫉妬」とか「怒り」、
又は、コンプレックスを持つ事から「人に意地悪」をしてみたり、
果ては「自分にイジけて」拗ねてみたり、「他人の幸せ」にシラケて無関心になったり、鬱になったり・・・
などという事は起きないはずですね?
(; ̄O ̄)
この様な感情を持ってしまのは、人間というものが、それだけ「自分」というものへの異常なほどの愛着が有るという事であり、
自分へのハンパない関心が根底に在るからこそ、これらは生まれて参ります。
(^^;
ですので、私達はなかなか「自分以外の人間を認めたがらない」という、とてもセコい資質を(笑)、誰もが根に持つ訳なのです。
(^^;;
では、反対に「人を認められる様になる」というのは、どの様な現象を言うのでしょうか?
それは「経験」というものを通して、初めて生まれて来る心なのだと思います。
《゚Д゚》☆彡
例えば、自分が親から「とても愛された」という記憶を持つ方は、他人の中に同じものを見た時に、その幸せ感や充足感が理解できますから、自分の事の様に心がホワンと温かくなる事でしょう。《゚Д゚》~ ♡
これは、何か自分の人生で「成功」していると感じる人が、他人様の成功も「認められる」という事にも通じますが、
「自分がそういう経験をしているから理解できるし、自分が幸せなら、他人の幸せを認める事ができる」という訳ですね。
(^^ ♡
もう一つの「他人を認められる様になる」ケースは、
自分が同じ経験をする事で、初めて「やっている人の凄さ」が理解できた時に、人は人を見直したりして、「認める」という事ができる様になるものです。
これは世間では、良く「大人になる」という表現をされますね?(^^♪
「自分が親になってみて、改めて自分の親の事を見直す」とか、「自分の仕事を通して、やって来た上司や先輩の凄さを、改めて理解できる様になる」とか、
或いは、習い事などの「師匠と弟子」などは、正にこの様な関係なのでしょう。《゚Д゚》☆彡
その様に「人の才能を認められる」様になるというのは、その人の器が、その認められたものに「近づいた」か「同等」、或いは「超す」時に起きて来る現象でもありますし、
それはもしかしたら、自分の真の個性に気付いた事で「自分の特質を受け入れ、自分で自分を認める」事ができた故に、人との違いに嫉妬やコンプレックスを抱かなくなれたという事かもしれません。
この様に「自分の真の才能や個性を、自分で認められる」という事も、
「相手の個性や才能も認められる」という事に繋がっているのです。☆彡
「認められてこそ」、人はその人を超す事ができるというのが、この世の法則です。
☆_(_☆_)_☆
ですが世の中には、どうしても「認めたくない」「認めるべきでない」というケースもございますね?
例えば、
「どうしてこの人は、この様に 自分の我儘や怒りや不機嫌を、周りに撒き散らすのだろう?」
「 〟 無神経な事ができるのだろう?」
「 〟 残酷な事ができるのだろう?」
「 〟 冷酷になれるのだろう?」
「 〟 無関心・無感動でいられるのだろう?」
・・・などの様な人達に対してです。
(; ̄O ̄)
世の中には色々な方達がいらっしゃいますので、生きていれば私達はこの様な方々にも、必ず遭遇致します。
(^^;
その時に、こういう相手に対して、私達は腹を立てたりして「絶対認めたくない」「認めるべきではない」と思ってしまう事も多いのではないでしょうか? (`_´)
特に正義感の強い熱血漢の方達などが、その怒りを露わに表現して下さると、世間の皆様は「自分の代弁者」の様に感じ、大変共感される事からも窺えます。(アメリカ映画に多いヒーローものとか、半沢直樹とか?笑)
「こういう人達を、どうやって認めろと言うのか!?」という、この "上級編" とも言える難しいケースも、やはり「経験から相手を理解する」という事からしか、解決法は無い様に私は思います。
_(_^_)_
只、このケースの理解だけは、最初の二つのケースとは、ちょっと質の違う「理解」になるでしょう。
それは、そういう「人として未熟」な方達に対しての理解には、「慈悲」という眼が必要になって来るからです。
《゚Д゚》☆彡
けれど、この「慈悲」というものは、「且つては、自分もそうだった」という経験がある人にしか、真の理解には至らず、持てないものなのではないかと思います。
《゚Д゚》!?
「??? え~~~ッ!私は、そういうネガティブな行為をしようとも思わない!」と仰る方も、幾度となく生まれ変わっている数え切れない「前世」の中の人生では、そういう段階の自分がいたはずなのです。
《゚Д゚》!!
それらを過去に経験し、そこから学んで自分は卒業したから、今はその様な未熟な方達の行為の愚かさが理解できる訳ですし (※自分の中にも同じものが有るから理解できるのです)、「何故、この様な事ができるのだろう?」と、今は感じられる訳なのですが、
(; ̄O ̄)???
私達は学びの為に、全て前世の記憶を消されてこの世に誕生する様になっているらしいので、自分が且つて遠い過去で行った行為と学びは、記憶としては覚えていないだけで、
でも過去に学んだものは、ちゃんと自分の中にエッセンスとしてしっかり残っているのだと思います。
(何も残らないという事であれば、わざわざ何回も生まれ変わる必要と意味が無いではないですか~?(笑) )
それが持って生まれた「資質」や「人格」となり、他人の愚かな行為を観て「今の私には、そういう事はできない・したくない・理解できない」などの反応になるのでしょう。
《゚Д゚》☆彡
その様な行為を「愚かなもの」だと理解できるのは、
その行為が、それを為す人の「自分が蒔く種」にもなっており、最後は「自分で刈る事になる」という真理を知っているからこそ、相手に対して心を痛めるという「慈悲」を持つ故なのですが、
やはりそれは、「且つて自分も経験した」という所からの深い理解が無ければ、他人様の為の「慈悲」という所には来れないものなのだと思います。
《゚Д゚》☆彡☆彡☆彡
又そこに至るには、その同じ様な経験から、或いは他の経験から生まれる「想像力」でもって理解できる様になるという感受性が、大きな働きをしているのだと思いますし、
その感受性も、やはり豊かな「経験」からしか培えないものなのです。
☆_(_☆_)_☆
この様に捉えますと「経験から来る理解に優るものは無い」という事が理解できますし、
「頭だけの理解」では、「慈悲」という心を養うまでには成らないのではないか?と思えるのは、
「慈悲」というものの性質が、「自分の事の様に、相手に対して、自分の心を痛める愛」だからです。
( ; _ ; ) ~ ♡
本質が「自分の事しか考えない」人間が、他人の事を自分の事の様に感じられる所まで来るというのは、並大抵な事ではありましぇん!(笑)
(^^;
ですので「認められない」「認めたくない」「認めるべきでない」と思われる行為をされる方達に対しては、
「慈悲」の心でもって、相手の「未熟さを認める」事により、相手を許してあげる事なのではないかと思います。
☆_(_☆_)_☆
でもこれは、「相手がどんな酷い事をしても許して、黙って容認し我慢をする」という事とは違います。
《゚Д゚》!!
もう一つ突っ込んだ「慈悲」という所では、
因果の法則から、相手を思い遣り、その相手の為に「相手が、自ら自分の未熟な行為に気付ける様に導く」という役目があるのですね。
「慈悲」からの行為というものは、この様に自分の個人的な「怒り」というものからでは無いので、人の心の中に自然に入って行ける行為となるのでしょうね~。
《゚Д゚》☆彡
この行為は、人格としての「資格」も要りますし、なかなかできる事ではないのですが・・・。
(「慈悲」は、学びの上級編!)
《゚Д゚》☆彡☆彡☆彡
以上、「他人を認められる」様になるには、この様に様々な段階があるのですが、
どのケースでありましても「人を認められる」という心と行為は、素晴らしいものであり、
それは「今の自分のレベルと器を知る、バロメーターにもなっている」という事でもあるのだと思います♫
☆_(_☆_)_☆
何かお正月に相応しい、華々しい空ではございませんか~?♡ ♡ ♡
(^^♫ ♫ ♫
誠に美しい風景でごじゃります~~~!♫♫♫
(^^ ♡ ♡ ♡