幸福な時、あなたはけっして悲しい時のように深くない - 文化・芸術全般 - 専門家プロファイル

舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
東京都
クラシックバレエ教師・振付家

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幸福な時、あなたはけっして悲しい時のように深くない

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今回のメッセージですが、もう何年前になるでしょうか。私はOSHOという方の本に深い感慨を覚えて読み漁った時期がありました。

 

以前にどこかのコラムで書かせて頂いた覚えがありますが、そのOSHOとの本との出会いは非常に摩訶不思議なものだったので、今でも鮮明に覚えています。

( ・・) ~ ☆彡

 

人生には時々マジックというか、不思議な力で導かれたり守られたりする時がありますが、それが起こる時は「人生の袋小路」の様な状態になっている時というのも含め、常に自分が「次のステージにレベルアップする時」であったと思います。

(^^✿

 

その時の自分に必要なものが、何かの力によって引き寄せられるというか、目の前に現れ"シンクロして来る"という感じで、こうして色々な形を取りながら"縁"というものに繋がっているのだな~と、私は自分の経験上確信するのです。

 

これは良く"自分に用意ができた時に、師が現れる"という言葉で表現されますね~。(私の場合は「自分で気付いて見えかかった時に、それを後押ししてくれる様なものに巡り合うというパターンが多い感じでしょうか…)

 

OSHOという方の持つ生き様や人生哲学は、人により受け止め方は様々かもしれませんが、私は彼の東洋思想に共通する成熟したものの捉え方に深く共感できますし、人間という生きもの含む"この世の真理"を鋭く深く、そして広く追究し大悟されたお一人ではないかと感じています。

 

今回ご紹介させて頂く彼のメッセージには、多くの方達が無意識に用いている「二元性」という分離したものの捉え方=思考癖というものが、いかに自分自身の人生をがんじがらめにしていて、苦しみや葛藤を生み出しているのかという事を、丁寧に紐解く様なものになっています。

 

この世の真理であり、又性質である「表裏一体」というものの捉え方ができる様に成った時、私達人間は初めて「真の大人」として"生きながら生まれ変わる"という様な新しい人生を歩み出せるのかもしれません。

( ・・) ( ・・) ( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

 

  

 

【幸福なとき、あなたはけっして悲しいときのように深くない。悲しみには深みがある】

                      by OSHO

 

惨めさについてさえ、あなたは喜び祝う態度をとることができる。

例えば、あなたが悲しいとき、悲しみに同化してはいけない。

観照者になり、その悲しみの瞬間を楽しみなさい。

というのも、悲しみには独特の美しさがあるからだ。

 

 

あなたは一度も見守ったことがない。

あなたは完全に同化してしまうので、悲しみの瞬間の美しさにけっして入っていかない。

見守ったら、自分がどんな宝物を見逃していたか、あなたは驚くだろう。

 

 

見なさい。幸福なとき、あなたはけっして悲しいときのように深くない。

悲しみには深みがある。

 

 

幸福には浅薄さがつきまとう。

幸せな人たちのところへ行って見てみるといい。

いわゆる幸せな人たち、遊び人の男や女、クラブや、ホテルで見かける人たち、劇場や映画館など、

そういった人たちはいつも笑っていて、幸せにわきたっている。

 

 

彼らはいつ見ても薄っぺらで、上辺だけであることに、あなたは気がつく。

彼らには深みというものがない。

 

 

幸福は表面にしかない波のようだ。

あなたは上辺だけの人生をすごす。

だが、悲しみには深みがある。

 

 

あなたが悲しいとき、それは上辺だけの波ではなくて、

まるで太平洋の深海のようだ。何千メートルもの深みがある。

その深みに入っていって、それを見守ってみるといい。

 

 

幸せは騒がしいものだ。

悲しみには静けさがある。

 

 

幸せが昼のようだとしたら、悲しみは夜のようだ。

幸せが光のようだとしたら、悲しみは暗闇のようだ。

 

 

光は来ては去る。

暗闇はとどまる。

それは永遠だ。

 

 

光がたまに生じる。

暗闇はつねにそこにある。

 

 

あなたが悲しみのなかへ入っていくと、このすべてのことが感じられる。

突然、あなたは悲しみが対象としてそこにあって、

自分が見守り観照していることに気がつき、

そして突如として、あなたは幸せを感じはじめる。

 

 

こんなに美しい悲しみ! それは暗闇の花、永遠の深みの花だ。

底無しの深淵のように、とても静かで、とても音楽的だ。

いっさいの雑音がなく、妨げるものはない。

 

 

人は無限にそのなかへ落ちていくことができるし、

すっかりみずみずしくなってそこから出てくることができる。

 

 

それは休息だ。

それは態度しだいだ。

 

 

悲しくなると、あなたは自分によくないことが起こったと思う。

自分によくないことが起こったというのは解釈なのだが、

あなたはそこから逃げ出そうとしている。

 

 

あなたはけっしてそれに瞑想しない。

そのようなとき、あなたはだれかのところへ行こうとする。

パーティーへ、クラブへ、あるいはテレビやラジオをつけたり、

新聞を読みはじめたり、とにかく忘れようとしてなにかをする。

 

 

このような間違った態度、

悲しみはよくないという態度が、あなたに教え込まれてきた。

 

 

それはなにひとつ悪いものではない。

それは生のもうひとつの極だ。

幸福は一方の極であり、悲しみはもう一方の極だ。

至福はひとつの極であって、惨めさはもうひとつの極だ。

 

 

生はその両方から成り立っている。

そして生にはこの二つゆえに規則性がある。

 

 

至福だけの生には、広がりはあるが深みがない。

悲しみだけの生には、深みはあるが広がりがない。

悲しみと至福の両方がある生は多次元的だ。

それはいっぺんにすべての次元のなかを動いていく。

 

 

仏像を眺めるか、または私の目のなかをのぞきこんだら、

あなたはその両方をいっぺんに見いだすだろう。

至福、安らぎ、そして悲しみもまた。

 

 

あなたはそのなかに悲しみをも含んだ至福を見いだすだろう。

なぜなら、その悲しみが至福に深みをもたらすからだ。

 

 

仏像を眺めてみるといい。

至福に満ちているが、悲しげでもある。

 

 

この「悲しさ」という言葉があなたに間違った意味を連想させる。

なにかがよくないという。

これはあなたの解釈なのだ。

 

 

私にとっては、全体としての生が好ましいものだ。

そして全体としての生を理解して初めて、あなたは祝うことができる。

そうでないと祝えない。

 

 

祝祭とは、なにが起ころうと関係ない。

とにかく私は祝うという態度だ。

祝祭はなにかの条件に依存しない。

 

 

「幸せだったら私は祝う」とか「不幸せなら私は祝わない」とか。

祝祭は無条件であり、私は生を祝う。

 

 

生は不幸せをもたらすが、それでいい。

私は生を祝う。

生は幸せをもたらすが、それでいい、

私は生を祝う。

 

 

祝祭は私の態度であり、生がもたらす条件には依存しない。

だが、私が言葉を使うために、それらの言葉があなたの心に連想を生じさせ、

問題が起こってくる。

 

 

私が「祝いなさい」と言うと、あなたは幸福にならないといけないと考える。

悲しいのにどうして祝うことができるだろうか、と。

私は祝うために幸福にならないといけないとは言っていない。

祝祭とはなんであれ生があなたへもたらすものに感謝することだ。

 

 

神があなたになにを与えるにしても、祝祭とは感謝の気持ちだ。

それはありがたいと思うことだ。

 

 

 

 

         

 

          何年か前にもご紹介した、我が家の居間に飾られている海の絵(油絵)です♫

                   

左側の太陽が描かれた海の絵は、私が若い時に東京の街中で絵を売っていた外国人の方(多分画家の卵の方?)から購入したもの♫

 

実際の絵はもう少し明るく、温かさと柔らかさと繊細さが伝わって来る様な優しく美しい色彩です。そして右側の月が描かれた海の絵は、当時バレエの舞台で主演する為に訪れたルーマニアで購入したものです♫

 

「太陽が描かれた海の絵」を最初に購入した時から、15年以上経って購入した「月が描かれた海の絵」ですが、まるで東洋哲学の陰陽を現している様で、今では自分の中で「対の絵」として、セットでお気に入りの絵画になっています。

                        (*^^*) ~ ♡

 

 

 

 

今回のメッセージ、OSHOらしさ満載~☆彡という感じで、私はとても共感致します♫

☆_(_☆_)_☆

 

私が思うに、人間というものはエゴな生きものでもあるので、イケイケな時は他者の心に対して繊細な想像力が持てないというのもバランスなので、逆に自分で気付けない鈍感さや傲慢さを裏に持ってしまうという事も往々にしてあるのではないでしょうか。

 

(※それ故、他人に対して上から目線で尊大な態度になる方や、表面的で安易なものの見方しかできない故に、自分の主観だけで人を判断し、実際に会った事のない人にまで批判・批評が得意になるという方も多くいらっしゃいますでしょう?その裏に在る心理「自分の方が他者より優れている・いたい」には気付かずに…)

 (・。・;

 

OSHOが語られている様に、「明るさ」や「楽しさ」「嬉しさ」という様なものにしか目を向けたがらず、そういうものにしか人生の意味や価値を見出せない方達というのはどこか浅はかで、

 

そういう「人生の片一方だけを見る=ネガティブなものを避ける・見て見ない振りをする」という様な"片手落ちの人生"を歩んでいる方達というのは、表面上は他人を思い遣った様なパフォーマンスをされていても、そこに本物の優しさや深みは感じられない事の方が多い気が私は致します。

 

子供って純粋でもあるけれど、残酷でもあるという様に…。

(^^;;

 

 

ちなみに、これは今回のテーマにも通じるでしょうか?

 

私は最近「演劇」というものの触れる機会が多くなり、以前より演劇の舞台に興味を持って観させて頂く事も増えたのですが、そこで色々私なりに感じるものがあるのですよね~。

 

例えば故・蜷川幸雄さんという方がお創りになっていた演劇の世界は題材に波動の重いものが多く、一見すると深く見えるのですが、私的には彼の創り上げる世界観はどこか漫画チックであまり重みを感じないという事も正直ありますね。

 

これは彼自身の持っていた(※良く言えば「少年の様な…」かもしれませんが、ハッキリ言って)"幼児性"みたいな部分の現れなのでしょうか?

 

そして又、それとは対照的と言っても良い演出家・脚本家でもある三谷幸喜さんという方が創り上げる世界は、一見軽くて漫画チックに見える「喜劇の世界」が真骨頂ですが、

 

私は逆に、その裏に在る(三谷幸喜さんという)演出家の持つ「ハンパない人間というものへの洞察力」から生まれる深みと、彼の生まれ持った気質である「人を楽しませたい」という純粋な思いから生まれる波動の高さ(軽さ)いうものが、私には感じられて来るのです。(※この波動の重い・軽いは、私の場合理屈ではなく、直に触れた時の自分の身体の感覚で判断します)

(^^✿ 

 

「悲劇より喜劇の方が難しい」=「人を泣かせるより、笑わせる方が難しい」という言葉は、演劇に限らず舞台に立つ者には有名な言葉ですが、

 

本当に人を心の底から笑わせる事ができるのは、(前世含む)人生の経験値から「人間というものへの深い理解と洞察力」という知性を持った"深く広い愛の有る人間"にしかできないものであるという事ではないかと私は思います。

 

特に最近の日本で「お笑い」と持て囃されるものに私があまり魅力を感じないのは、そういう人間に対する深い所から生まれるユーモアやウィットが希薄で、どこか鈍感で乱暴で煩くて、安っぽいインスタントな「本物の知性や品格が感じられない笑い」「人を笑わせなければという強迫観念に縛られた上っ面なお笑い」ばかりで、繊細さや丁寧さというものに欠けるものが多いからだと思います。

(-_-;)

 

本物の方が持つ「自然さという"さりげなさ"」というものは、実はとても高度で高貴な技術でもありますが、それはやはり、それを演じる役者さんや演出家の方から醸し出される「品格を持った人格」というものが根底に在るからこそ生まれるものでもあります。

 

演劇という芸術も人間が創り出す世界ですからね~。一見「重厚に見える演劇」や、一見「軽く見えるお笑い」というものにも、当然そういう表裏一体としての深いものが存在しています。(勿論全てが同じという訳ではありません)

 

ちなみに「裏に在るものを見抜く力」は、各自がそれぞれ人間として"深さ"を培う毎に養えるものであり、又それと同時に「人生経験の豊かさにより、観えるもの(意味)が変化して行く」というものでもあるのだと私は思います。

 

残念ながら私達が「深みのある人間」「深さを理解できる人間」になるには、キレイなものや楽しいもの、嬉しいものなどだけに目を向けたり、自分を悲劇のヒーローやヒロインに仕立て上げる"幼児性"というものから脱皮し、

 

そういうものの裏に"同時に存在するもの"も理解できる様になる、「表裏一体という視野」で自分含めたものを観察できる様にならないと…という事でもあるのですね~。

( ・・) ~ ★彡&☆彡

 

 

 

 

話の流れついでに、「漫画」と言えば、私は昔から漫画やアニメよりも、自分の想像力を邪魔されない本の方が好きですねぇ~。

 

漫画も色々あって「面白い」と感じるものや、「可愛いもの」「芸術性」を感じられる様な作品も中には在ると存じますが、海外の方が日本に来られてビックリするものの一つに、「電車の中などで、大の大人が読み耽る漫画」がある様です。(※私の知り合いの外国人の方達もそうでした。最近は様変わりして漫画がスマホになっているかもですが…。スマホ中毒は今や世界共通!? 笑)

 

大人な彼らの感覚では「漫画は子供の読むもの」という様に捉えられていて、日本人がとても幼稚に見えてしまうのだそうです。

 

私自身は…そうですね~。私は昔からあまり漫画は読まないという事もありますが、

 

個人的には、特に最近の漫画の絵を広告(※動画含む)やアニメの宣伝などで目にする時に、「個性の欠如(※皆似た様なものに見える。これは最近のタレントさんにも言える傾向)」「稚拙さ」「幼稚さ」「浅はかさ」「気持ち悪さ」というものを感じて、あまり魅力的に思えない絵や作風が多いですね。

 

そういう中で魅力を感じる漫画とは、やはり「深いものを知っている作者」の方が描かれた作品でしょうかね~。そういう方が描かれるものは、ジャンルを問わず"いつの時代にも共通する普遍性"という奥行きのあるベースが根底に感じられますので、この私でも魅力を感じます♫

(^^✿

 

そういえば…「漫画」という事で、今思い出した私の過去のコラムがありますので、今回のテーマに沿うかどうかはビミョ~ですが、最後にそれをご紹介致しましょうか。

     ↓       ↓       ↓

 ★映画・漫画・アニメなどに巧みに真実を盛り込む事で、逆に真実を「トンデモ説」にしてしまうカラクリ

 

このコラムで転載させて頂いた記事を読むと、「漫画やアニメ文化の裏に隠されたもの」というものも見えて来たりして、それらに対する感覚が変わって来るかもしれないですが、

 

「発想の転換」として読んでもとても面白く、或る意味「頭の柔軟さ」というもののバロメーターになるかもしれません。(※私的には「あぁ、だから私はあんまりアニメや漫画に惹かれなかったのかも…」と妙に納得致しました♫笑)

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

 

 

…ん?あれ?

今回のコラムの〆は、これで良いのだろうか???(笑)

(^^;;

 

 

ま、いいか。(笑)

(^^♫

 

 

 

 

 

  

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(東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ

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長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年