- 大園 エリカ
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
- 東京都
- クラシックバレエ教師・振付家
前回に続いて、今回は同じ質問をしていた別の生徒との「カツ丼」のストーリーの解釈に関してのやり取りです。
☆_(_☆_)_☆
【加藤杏菜からの返信】
私は舞台を始め、映画や本など一度見るだけでは内容を読み取ることが出来ず、
3回4回と繰り返し見ることで内容を理解して行く事が殆どです。
なので、今回の「カツドン」 の舞台 に関しても他者に伝えられるまで自分の中で噛み砕けておらず、
解釈や考察の域に達することの出来ない散漫とした感想と考えだけしかありません。
その上での、 自分なりの考えなのですが、
劇に出てくる「カツ丼」はイコール「男」からの無償の愛の象徴なのだと思って見ておりました。
「女」がカツ丼をトイレに流した際にあれほど落ち込んだのは、意識的にせよ無意識にせよ 、
人からもらった愛を無下に捨ててしまったからだと感じ、観劇している際、同じように胸が痛くなりました。
作家の方が何を言いたいのかは、私はまだ考えを巡らせている最中なので分かりませんが、
コメディータッチの恋愛劇であると共に、愛に対する作家の思想がおり混ぜられた
深いお話だと感じられました。
特にそれを感じたのが、「女」がカツ丼を持って独白するシーンで、
このシーンの演出やエリカ先生の演技を思い返す度に、良い作品だった、
もう一度と言わず何回も繰り返し観たい、と思います。
また、 最後に水面便所の流れる音で終わった意図も分かりませんが、
この音があることにより、トイレの中に捨てられた「カツ丼」=愛が薄暗い下水道の中を通り、
誰にも見られる事もなく、都心の地下深くをゆっくりと流れてゆく様を脳内に描く ことができ、
余韻に浸るような気持ちで想いを馳せることが出来たので、
私にとってはとても良いなと感じられる演出でした。
(次の演目の為にスタッフ方々(?)が、ブルーライトで舞台を照らしていた事も、下水道を流れてゆくカツ丼を連想させ、演出家の方の意図ではないかもしれませんが、素敵だなと思いました。)
舞台を観劇している最中は、エリカ先生が体だけではなく声を使って演じているという、
改めて感じる驚きと、久しぶりに舞台を見る高揚感などに包まれていたので、
「とても楽しかった、素晴らしかった」というふわふわとした幸福感からくる感想しか持ち得ず、
非常に曖昧な、印象だけでの感想となってしまい申し訳ございません。
エリカ先生がコラムで仰っていましたように、
またエリカ先生が「カツドン」を演じることがございましたら、
是非ともまた拝見し、この作品とより深く触れ合うことが出来たらと思っております。
【私からの返信】
貴女の感想、私にはとても新鮮に感じました!
私も貴女という女性を再発見した感じです。
その若い今の貴女の中の純粋さはとても美しいと、私は感動しています。
演劇というのは何でも有りという所があって、どう感じるかはその人の自由であり、
それぞれの解釈で良いのですから、貴女がそう解釈して感動したなら、
それが貴女の答えという事なのです。素晴らしい!
愛菜ちゃんにも同じ質問をしてみましたが、やはり貴女の方が年上だけあって、
解釈には女性としての深みがあります。
愛菜ちゃんも、彼女なりに解釈はしたものの、
正直全体的にはあまりピンと来ていないという事で(とても正直で良いですね!笑)、
愛菜ちゃんには私が解釈したものの解説を、今メールしてあげている所です。
(貴女も読みたければ転送しますが、貴女なりの解釈を自分で膨らましたければ、それも一つの楽しみ方です)
ちなみに貴女の解釈の中では、何故最後にカツ丼ではなく天丼が届けられたのか?
又彼女がそれを食べて劇が終わるという所は、どういう風に解釈しましたか?
【加藤杏菜からの返信】
是非ともエリカ先生の解釈した解説を拝見したいです。
最後にカツ丼ではなく天丼が届けられたことに対する自分なりの考えなのですが、
観劇中はカツ丼=愛の象徴であると思っていたため、丼の種類が変わったことは、
「男」の愛の種類が変わったことを示しているのではないか?と感じていました。
また「女」が天丼を食べて終わるシーンは、「女」自身がカツ丼を捨てた事により、
自分が嫌々ながら貰ってきたそれが自分の支えの一つになっていた事に気がついたため、
食べたのではないかと思いました。
夜遅くまで働き、疲れて帰る日々に、毎日夕ご飯が用意されているというのは
精神的支えになるのではないかと思います。
そんな支えが
「見知らぬ他人から送られてくる怪しいもの」
「カツ丼という夜に食べるにはいささか重いもの」であったために、
「女」はカツ丼を恋に置き換え、
辞めたくても辞められないと独白したのではないのだろうかと感じました。
最後の喜びようはそんな「見知らぬ他人から送られてくるカツ丼」が
「男」から送られてくる天丼(=相手が自分に歩み寄り形を変えてくれた愛)」であったためではないかと
考えております。
【私からの返信】
カツドンの私の解釈を聞いたら、貴女の描いた美しい世界がブッ飛んでしまい、
ショックを受けてしまうかもしれませんが、
それでも良いでしょうか?
【加藤杏菜からの返信】
はい、それでも是非聞いてみたいと思います。
宜しくお願いします。
【私からの返信】
では解説に参ります♫
(※以下、私の解釈した「カツ丼」の解説は、前回のコラムの中のものと重複しますが、そのまま載せます)
これは大人のストーリーなので、実は少しエッチなお話しなのです。
解説しても、今の貴女にピンと来るかどうか先生には分かりませんが。
人間には性欲という本能がありますね?
人間というのはとてもセクシャリティな存在でもあります。
セクシャリティというのは、赤ちゃんや子供でも実は持っている自然なものなのですけれど、
日本人は何故か隠したがります。(笑)
「カツ丼」はそうしたものを象徴していると先生は解釈しました。
何故なら「恋と食欲は似ています」という台詞が2回も出て来るからです。
恋とはセクシャリティを指しますね?
私も今回初めて本格的な演劇に触れて、その作り方というのを知ったのですが、
同じ台本でも演出家により自由に解釈して良いので、
今回のカツ丼のお話しは、初演に演じられた設定とは全然違うストーリーになっていた様です。
今回の演出では、実はあのメッセージカードや手紙を書いてカツ丼をおごっていたのは、
あの出前持ちだという設定でした。
私が演じたOLは、一瞬出前持ちじゃないかと疑いながらも、
カツ丼を毎晩届けて来るのはコダマという見ず知らずの他人だと最後で思っています。
つまり出前持ちの片思いという設定です。
彼女は見ず知らずの他人から毎晩決まった時間に届けられるカツ丼を、薄気味悪いと感じながらも、
美味しくて毎晩食べてしまうのです。
つまりそうした欲望に打ち勝てない女という事ですね。
その中には都会の中で孤独に生きている寂しさからというものもあります。
どんな人かもわからないし、愛している訳ではないけど、
人の温もり(=セックスに通じる)が欲しいみたいな心理でしょうね。
でもそれをどこかで恥じている自分もいる。だから
「今夜こそ持って帰って!」とか、「ドアの前にいくつも空のどんぶりを溜めないでよ!」
「他のアパートの住人に、どんな女かと思われて恥ずかしい」という台詞がありますし、
でもカツ丼の誘惑に負けそうになったり、
色々葛藤したりしていましたね?
最後の方に出て来る台詞「ダイエット」というのも、
そういうものを自分から削ぎたいという比喩だと先生は解釈しています。
(ちなみにこの台詞に付いて演出家の方に「痩せている私がダイエットしたら、骸骨になってしまうし不自然じゃないですか?(笑)」と聞いたら、「痩せているけど、もっと痩せたい病んだ女でいい」との事でした。笑)
出前持ちの方は、カツ丼=自分=彼女に食べられたい=セックスしたい自分という事で、
彼女がカツ丼を食べるという事は、、イコール自分が彼女に受け入れられている気がして
嬉しく感じるのです。
歪んでいるでしょう?(笑)
恋というものにも色々有って、成熟した大人になると、
純愛というより肉欲で結び付いている男女もこの世には沢山いるという事ですね。
先生はそうした恋愛は経験した事はありませんが、そうしたセックスの相性の良さで、
仲が悪いのに離れられない男女もいる様です。
・・・という事が大人の世界にはあるという事を理解して下さい。(笑)
出前持ちの方はシャイでちょっと歪んでいるので、好きな女性に直接告白する勇気が持てないので、
コダマという偽名を使い、メッセージカードや手紙を彼女に届けているという訳です。(笑)
そして「持って帰って!」とか言ってるくせに、
コダマからの書留に書かれた「カツ丼は今夜で最後」というメッセージにOLはショックを受けますね?
どんぶりを置いて出前持ちは帰ってしまうし、そこで彼女は今夜こそ食べずにふっ切ろうと決意し、
水洗便所にカツ丼を流すのです。
では貴女に質問です。
最後に天丼が届けられて彼女は食べるのですが、どうしてそうなったか、
その意味はどういう事か分かりますか?
【加藤杏菜からの返信】
ありがとうございます。
とても楽しく、エリカ先生の解説を読ませていただきました。
不明瞭な部分や疑問に思っていた所が解決し、スッキリするとともに、
楽しく演劇を思い返すことができました。本当にありがとうございます。
ウィキペディアで調べてみた所、「天丼=同じことを繰り返す」という意味もあることから、
性欲(=食欲)で繋がった相手とは上手くいかないという暗示なのだろうか、
などと考えを巡らせてみましたが、
私にはエリカ先生の解釈での、カツ丼が天丼に変わった意味や、
それを食べてしまう女の意味を測ることができませんので、
エリカ先生の解釈をお聞きしたいと思います。
【私からの返信】
「天丼」は「カツ丼」よりも値段が高くて格上という所が解釈の要です。
彼女は痩せ我慢をして、水洗便所にカツ丼を流し、
「やっと自分の欲望に打ち勝てた自分」というものに安堵しながらも、その後に一人孤独になりますよね?
そこで「カツ丼は今夜で最後=もう届かない」という寂しさを改めて味わうのです。
彼女は空腹に耐えきれずにお菓子を食べようとしたり、石焼きイモの誘惑に負けそうになりながら(笑)、
でもやはり自分の「今夜は食べない」という意志を貫こうとします。
そうして「でも駄目よ。(食欲=性欲を)我慢しなきゃ。ダイエットするのよ!」と
痩せ我慢をし続けている時に、思いもよらなかった「天丼」が届き、
その驚きと共に、そこで初めて彼女は自分の正直な気持ちを認める=ありのままの自分=食べたい自分を
素直に受け入れるのです。
「天丼」を食べている時に、最後に水洗便所の音が流れて幕となるのは、
今まで恥ずかしいと感じて痩せ我慢していた自分を水に流して、
素直に自分のありのままを認めて受け入れた彼女=天丼を食べる彼女=成長した自分として
「生まれ変わった瞬間」を表していると私は思いました。
【加藤杏菜からの返信】
ありがとうございます。
エリカ先生の解釈をお読みし、舞台でのエリカ先生の演技を思い返し、
私の中で心より納得する事ができました。
私は愛の成長の物語であると感じていましたが、
それよりも、もっと大きな人間の成長の物語であったのだと感じ直すことが出来ました。
(この捉え方が間違っていたら、すみません)
また、天丼がカツ丼よりも高価であるという事を意識した事がなかったことに加え、
自分のありのまま(性欲・食欲)を認めること=成長した自分(良いこと)という発想を
全く思い浮かべられなかったことに、
自分が取り組まねばならないと感じている課題への
足がかりを見つけられたように感じます。
自分で考えを巡らせているだけでは決して得られなかった、
改めての舞台への感動と楽しさをありがとうございます。
エリカ先生の解釈をお聞きすることが出来て、とても嬉しく思います。
【私からの返信】
演劇は或る意味「何でも有り」の世界なので、解釈も個々自由で良いのです。
だから貴女が何の予備知識もなく「カツ丼」という作品を見て感じた事も、一つの解釈になるのです。
私は今の貴女が感じた解釈は、それはそれで素晴らしいと感じました。
若いからこその女性としての解釈や美しさを、貴女の中に見た気がしました。
人生経験や知識により解釈には幅が出て来ますね?
例えば天丼の方が値段が高くて、カツ丼より格上という事を知識として知らなければ、
この劇で作家が何を言いたいかが良く見えて来ませんよね?
あと性欲(大人)というものへの理解もそうですね?
演劇は個々の人生経験の豊富さや知識により、
解釈に深みと幅が出来てより楽しめる=イマジネーションが豊富になる分、
楽しめる世界という事になるのでしょうね。
そういう意味では何でも有りの世界である分、バレエよりも伝えたい事というのが
(例え今回の様に比喩というものを使った場合でも)、生身の人間の日常生活に密接した題材も多くて、
バレエよりもより直接的で生々しくなる場合が殆どでしょうね。
以上、もう一人の元生徒との「カツ丼」の解釈に付いてのメールでのやり取りでした♫
☆_(_☆_)_☆
これも食品サンプルで、こちらは小さく可愛いストラップ♫
今回「かつ丼」という劇に出演した記念に、自分で買いました♫
(^^✿
今回の劇でも垣間見れる様に、演劇という世界はバレエとは表現法が異なる故に、
非常に生々しい世界でもあります。
(※場合によっては、低俗と言われる様な作品にも成り得る世界でもあります)
その生々しい人間の本質の一部でもある醜悪さや滑稽さ、歪んだ愛の形などを、
醜く汚れたものとして感じるか、
そういうものの中にも、それは人間として誰もが内面に隠し持つものとして共感し、
「汚くても美しい」という美を見出せるかどうか、
或いはそこに「人間としての愛らしさや可笑しさ」というものに捉えるくらい、
客観視して感じられるかどうか、
…という所ではないでしょうか。
でもそれは演じる側の人生経験からの理解力や、人間としてのキャパ(器)、
人としての格というものが、観た者の心に大きく反映されるのでしょう!
そしてそれは演出家や観る側も同様で、
そういう各々の内面から「どの様な演出や解釈になるか?」というのが、
この作品を始め「演劇の世界」というものを、
各自それぞれどう捉えるかの分かれ目になる気が私は致します。
例えば、今回の私の解釈を知った元教え子は、
「私は愛の成長の物語であると感じていましたが、
それよりも、もっと大きな人間の成長の物語であったのだと感じ直すことが出来ました。
(この捉え方が間違っていたら、すみません)」
と伝えて来ましたが、
今の彼女が、この答えにはまだ自分で確信が感じられない=自信がないというのは私には良く分かります。
(^^✿
何故なら、演劇の世界は「何でも有り」と言われる分、同じ作品であっても、演出家や演じる者により、
上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)が入り乱れる世界でもあるというのが、
私の眼に映る光景でもあるからです。
ですので、今回の「カツ丼」という劇の中の女性が「自分に正直になった=等身大の自分に回帰した」
という事をどう捉えるか?というのも、その人、人の価値観や人生経験により、
様々な見方に分かれるのかもしれないと私は思っているからです。
人間として、動物的な本能に従う事を「堕落」と捉えるか、
或いは、彼女が自分に背伸びをする事を止めて「等身大の自分を認める事ができた=成長した」
という風に捉えるか、
或いは、男性の歪んだ告白の中に「真実の愛を無意識に感じ始めた彼女」という風に捉えるか、
…という様な事ですが、
私的には、最後「カツ丼」が「天丼」になったという事に通じる様な分析解釈をして、
この女性を演じたつもりです♫
(^^✿
ただ演劇の世界の様に、「何でも有り」という、云わば玉石混交の世界では、
その曖昧で混沌とした世界故に"歪みを生み出している"という一面は否めませんし、
人によっては、それが「傲慢・言い訳・逃げ・誤魔化し」などにも使える世界でもあるのだなぁ!
という事も私は感じ取っているのです。
演劇に限らず、どこでも"曖昧な世界"というのは、妬み嫉みも多い歪んだ世界を形成しますからね~。
その点バレエは演劇よりも実力やオーラに明確さがある分、逆に謙虚にもなれますし、
他のものより歪みが少ない、或る意味厳しい世界なのかもしれません。
でもそれが「上品(じょうぼん)と言われる芸術を生み出してもいるのだと私は感じます。
( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡
(※次回に続きます♫)
このコラムの執筆専門家
- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年