- 池本 真人
- Div Design Webサイトの一級建築士
- 東京都
- Webプロデューサー
善き友を得るということ
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徒然日記
2014-08-25 20:30
多聞第一と言われ、仏陀の説法を一番聞いた人物だとされています。
アーナンダが、ある時、仏陀に質問をします。
「善き友を持つことは、人生の道の半分を占めるのではないでしょうか?」
質問を聞いた仏陀は、次のように答えます。
「それは違うよ、アーナンダ。」
その答えを聞いたアーナンダは、まだまだ未熟だと思ったのですが…。
仏陀は、続けて次のように言いました。
「善き友を得るということは、聖なる道の全てだよ。」
仏教で言う善い友とは、一般的な仲間ということではありません。
普通の友は、ただ気の合う仲間ということですが、この場合の善い友というのは、自分を成長させてくれる尊敬出来る者のことです。
「気が合う」という言葉があるように、人間は自分と同じような人達と一緒にいるようになります。
相手を見極めようと思うのなら、その人物の周りにいる人達を見ると分かります。
愚痴が好きな人は、いつも愚痴を言い合ってますし、お金儲けが好きな人は、同じようにお金儲けを目指す仲間が一緒にいます。
いかに自分を偽ろうとしても、その仲間を見れば一目瞭然で分かるのです。
もし自分が「ここにいては成長できない」と思ったのであれば、眼の開いた視野の広い人の傍にいくことをオススメします。
そんな人の周りには、同じように物事を俯瞰出来る仲間が集まっています。
ところが、新しいグループに移っても最初は居心地が悪いものなのです。
愚痴を言いあう仲間達から離れ、成長しようとする仲間達の元へきたのに何故でしょうか?
それは自分の気と、新しい集まりとの気が合わないから仕方の無いことなのです。
今まで愚痴を言いあう仲間の元へいたのだから、新しい場へ来て、なんか居心地が悪い…と感じるのは当たり前なのです。
新しき善き友達は、自らのエゴではなく、自分のためを思って正した方が良い点を指摘してくれることがあります。
また、今まで自分が信じてきた価値観を覆される話しをされるため、最初は「怒り」や「戸惑い」が湧いてくるものなのです。
「そんな綺麗ごとは分かってるんだよ!でも出来ないんだから仕方無いだろう!」
と、居心地の悪い気分を相手にぶつけ、やっぱり前のグループの方が楽だった…と戻りたい気持ちにさせられます。
しかし、そこで戻ってしまっては元の木阿弥です。
せっかく自分を成長させようと思って新しい場に来たのに、また同じ愚痴を言いあう仲間の元へ来てしまったのですから。
また少し時間が経つと、やっぱり自分には別の場所があるのではないか…と、新たな場所を求め歩いていくことがあるかもしれません。
すると同じようなことが起きて逃げ帰り、何度も繰り返していくことになるのです。
自分を成長させてくれる善き友は、自分に都合の良い言葉や、慰めを言ってくれる人ではありません。
ハッキリ言うべきところは言うので、厳しく感じられることもあるのです。
でも、本当は優しさなんですね。
そんな善き友を得るということは、人生の全てである…と仏陀は言いました。
大人になっても指摘してくれる存在というのは有り難いものです。
そして、眼の開いた人というのは、そうそう出逢うこともありません。
もし今の自分を変えたいと思っているのであれば…。
善き友を見つけることです。
善き場所を見つけたら、最初はツラくとも一生懸命くらい付いていくことです。
そのうち、新しい集まりと自分の気が合うようになってきて、ある所までいくと、ふっと抜けて楽になっていきます。
果たして今いる自分の場が善き友がいる所なのか…。
それとも、ただ気が合うということだけで、仲間内で楽しく過ごしているだけなのか…。
本当の道というものを求める気持ちがあるのであれば、善き友、良き場ということを頭に置いて、くらい付いていってみて下さい。
その場にいることに大きな意味があるのです。
善き友を見つけられますように…。
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