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人材紹介会社勤務の思い出
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1.24歳会社入社から44~45歳頃の状況
私は44~45歳頃20年勤務した会社での評価に納得できず、人材紹介会社の土日転職相談に
従事することになりました。
この様子を見て兄は出世をあきらめたんだねと言いました。
会社は諸事由により私を昇格させないと考えた次第です。
今から30年前仕事ではベストは尽くすものの、会社は生活の手段の一つに過ぎないと自覚したのです。
入社後1年半の販売活動で2期目には36人中上位3位になったことがありました。
私と同じチームに在籍した2人は成績が良く企業グループ内でその後も大活躍しました。
26歳に販売金融会社大阪支店に出向、今やメイン商品になったメンテナンスリースのスタートメンバーで
した。
ここでは仕事終了後、関西の著名な会計学者が集う原価計算講習所に通い原価副士の資格を取りました。
その後経理や販売部門を経て工場勤務になりました。
メインバンクから出向していた先輩は飲んだ席で「Sは工場に飛ばされたのだ」と話していました。
私はメーカーの工場社宅で育ったので工場勤務には違和感はなかったのです。
この時点で工場が私のホームグランドに決まりました。
工場では工務部管理グループや生産準備Gに所属しました。
管理グループでは経費予算や改善活動を進め、生産準備Gでは設計変更や市場クレームを担当しました。
45歳頃から今までの幅広い買われ全社プロジェクト「部品激減80作戦」に参加しました。
プロジェクト活動は新たに建設された本社や協力会社に出向き実施されました。
同時に部品品番(廃番システム構築)の事務局を務めました。
材料表に詳しい購買中川さん、システム栗山さん、開発松田さん、部品部の皆さんが全面的に協力しました。
私は活動をまとめて本社講堂で成果を発表、また社内報で活動成果を報告しました。
2.土日転職相談活動について
45歳頃から58歳位まで勤務しながら副業として土日転職相談をスタートしました。
私はレスリスバーガーのManagement&workerを翻訳して卒論を作成したので組織内の働く人々に関心があった。
この当時転職が盛んになり、人材紹介会社の土日転職相談の募集があり応募してBH社に採用された。
この会社は専務の岡田さんが中心になり設立されたが、私が今転職相談を出来るのは岡田さんのお陰です。
もう一人の恩人は富士通OB雨宮さん,私のことを理解励ましていただいた。
仕事面でも協力して私が人材を見つけ雨宮さんが企業に紹介した。
なかなかの名コンビで一人決まるとお礼に食事会をした。
雨宮さんがBH退職後もお付き合いは続き、田園都市線青葉台駅で数年間、月一度位食事会をした。
岡田さんはトラブルが生じたことで責任を取られ退任され、私の活動は中止になった。
社長が変わり、BH社で尾島さんとのコンビが始まった。
私が面談をして尾島さん等が企業に紹介した。
尾島さんとは同窓で馬が合い、2003年12月、58歳位までコンビが続いた。
本職の会社は2002年10月リストラ退職、話があった時は8月だったが放送大学大学院を受験を決意申し込む。
幸いにも合格して2期生として03年4月入学、転職相談をテーマにして修士論文を作成して05年3月修了。
3.人材紹介会社勤務
2004年12月、再就職支援会社の紹介で勤務した自動車部品会社を退職、2005年1月BH社に契約社員
として勤務、2006年7月成績不良で退職、直ちに岡田さんのCNWにお願いして2013年10月まで勤務した。
いずれの会社も数人紹介したが成果が上がったのはCNWの医師の紹介だった。
感謝するのはBH社で一緒に仕事をして医療専門紹介会社に転職した小春さんだ。
医師紹介を立ち上げた後、岡田さんが小春さんを昼食会に招かれた。
その時、医師を紹介する際のポイントを教えて頂き参考になった。
一般の人材紹介とは異なり医師の気持ちをしっかり聞くようにアドバイス頂いた。
私はこの教えを守り業務を遂行した。
今では副業は当たり前になりましたが、40歳半ばの私は勤めた会社での限界に気づき第2の人生の準備を
開始しました。
30年が経過、77歳の私はインターネットで転職相談に従事していますが自分の人生に悔いはないのです。
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