「美しく見える宗教」を自己表現のアクセサリーとして利用する人達 - 文化・芸術全般 - 専門家プロファイル

舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
東京都
クラシックバレエ教師・振付家

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対象:文化・芸術

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「美しく見える宗教」を自己表現のアクセサリーとして利用する人達

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 私が祈りに反対なのは、それが基本的にビジネスだからだ。

 祈りは、神に賄賂を贈ることだ。

 

 それは神の自我(エゴ)を強めることを望んでいる。

 「あなたは偉大です。あなたは哀れみ深いです。あなたは望むことを何でもできます」

 

 しかも、あなたは何か欲しいものを得ようとしてそう言うのだ。

 

 

 

 

 人生は変容を必要としている。

 そして、変容というのは大変な仕事だ。

 

 それは「イエス・キリストを信じて、聖書を何度も読めば、あなたは護られます」

 というような子供騙しではない。

 

 いったい何から護られるというのだ?

 あなたが変容を遂げられないように護られるだけだ!

 

 

 

 

 何故宗教は、自然な本性に逆らうようにあなたを仕向けるのか?

 それはただ、あなたに罪悪感を植え付けるためだ。

 

 「罪悪感」という言葉を繰り返しておこう。

 この目的のために彼らは、あなたを破壊し、搾取し、鋳型に嵌め、

 屈辱を与え、自分自身を軽蔑するように仕向ける。

 

 ひとたび罪悪感がつくられて、

  「私は悪い人間だ、罪人だ」とあなたが感じるようになれば、

 彼らは目的を達することができる。

 

 あなたを救える者は誰かいないだろうか?

 こうして救い主が必要とされるようになるわけだ。

 だがその前に、まずは病気をつくりださねばならない。

 

 

 

 

 ひとたび罪悪感を植え付けられたら、あなたは宗教家の手中にある。

 もはやあなたは逃げられない。

 

 あなたの恥ずべき部分を浄化して、

 神の前に恥じ入らずに立てるようにしてくれる者は、

 宗教家しかいないからだ。

 

 彼らは神というフィクションをつくる。

 彼らは罪というフィクションをつくる。

 

 いつの日かあなたが神の目の前に立たねばならず、

 そのとき浄化され純粋になっていれば、

 恐れと恥を持たずに神の前に立てるというフィクションを彼らはつくる。

 

 

 

 

 真実は保護を必要としない。

 あなたが真実を語るとき、あなたは自らを証拠立てており、

 それだけで完全だ。

 

 他のものによる支えは何も必要ない。

 真実は、それが本物である証を、自分自身で持っている。

 

 嘘は空っぽだ。そこには何の証拠もない。

 しかし、あなたはいくつもの嘘をつき続けることで、

 人を騙すことができる。

 

 おそらく一つくらいは嘘がバレるかもしれない。

 しかし、何千もの嘘が語られたとき、

 それらの根底にある嘘を見つけ出すことは非常に困難だ。

 

 「神」というのが、その根底にある嘘なのだ。

 だからこそ、その嘘は世界中の何千もの神学によって保護される必要があった。

 

 

 

 

 探求には危険が伴う。

 それは未知の世界に踏み入ることだ。

 

 そこで何が起こるか分からない。

 すべての慣れ親しんだもの、快適なものと別れなければならない。

 未知の世界では向こう岸に、何があるかどうかさえ定かではない。

 そもそも向こう岸などないのかもしれない。

 

 有神論にしがみつく人々がいる。

 もう少し知力と教養のある人は、無神論にしがみついている。

 だが、どちらも疑念からの逃避だ。

 疑念から逃げることは、探求から逃げることだ。

 

 疑念とは何か?

 それはただの疑問符に過ぎない。

 それは敵ではない。

 

 疑念は、あなたを探求へと誘うあなたの内の単なるクエスチョンマークだ。

 あなたの友達だ。

 

 

「瞑想録」静寂の言葉 OSHO  より

 

 

 

 

 

 

私達に与えられた権利に「宗教の自由」というものがありますが、

 

私は基本的に「人間を教祖様の様に祀り上げる宗教」や、人間の元々生まれ持っている生命力を失わせる様な「罪悪感を基本に据える教義を持つ宗教」は本物ではないと思っています。

 

以前のコラムでも度々お伝えした事がありますが、時の権力者によって人間を支配し易い様に書き換えられたり、捏造されたりした教義を持つ宗教などというものは、本当は人類には必要ではないものであるとも私は個人的には思っておりますが、

 

(※教義の矛盾に気付けず、作られた上辺の美しさに囚われ盲信=依存されてしまう方というのは、お人好しの方に多い印象ですが、それは時の権力者達が如何に人間の心理をコントロール支配する事に長けているのかという事の現れでもあると思います)

 

もし人間に宗教が必要だと言うならば、そこに〇〇教という名前や集団や組織というものは必要無く、「一人一宗教」というか、非常に個人的なものであるべきとも私は思います。

( ・・) ~ ☆彡

 

 

 

私は若い頃から、自己表現のアクセサリーとして「"美しく見える宗教"を利用する方達」というのを沢山拝見して参りましたが、

 

多くの方が夢見る夢子ちゃん的で、深い洞察力を持たれた方=教義の矛盾を見破れる様な知性的な方というのは、正直あまりおられないという印象を持ちます。(※見破れる方は、信者になどなってはいないから?)

 

それはそういうものを信じる大半の方はとてもナルシストで、「そういうものを信じている自分に酔っているのでは?」と感じさせられる事が多かったからです。

 

表面的には非常にロマンティックで神秘的、そんな"綺麗に見える宗教"を追い求める人間というのは、この世の陰陽の法則によるバランスで、実はとても独善的で偽善的になってしまっているのに、

 

そんな自分に全然気付けていない方達も非常に多いという印象は、正直否めないという所でしょうか…。

(^^;

 

 

 

ちなみに私はOSHOの知性的で温かいメッセージが好きなので、ここのコラムで良く紹介させて頂いておりますが、それは私がOSHOの本を読んだから、OSHOを信じているのではなく、

 

彼の本を読む前から、すでに自分の中にあった疑問に対する「自分なりの答え」を自身で見つけ始めた時に、それと共鳴する様なOSHOの本に出会った感動があるからです。(※これはもう何年前の事になるでしょうか)

 

ですので、あの頃の私と同じ様な感覚を持たれた方達がいらっしゃるなら、同じ感動をシェアできたら良いなという思いが私の中に有るのです~☆彡

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

「自分の外側にある神を信じる事を説くのではなく、自分自身を信じる事の大事さを説く」という、この世の"究極の真理"を説いているものならば、別にOSHOの本に拘る必要はないのですが、

 

私は非常にOSHOとは相性が良いらしく(※これは以前にコラムで書かせて頂いた記憶がありますが)、彼との本との出会いも実に摩訶不思議な出会いでしたし、

 

彼のポエムの様な知的で美しい言葉を駆使した、"真理"に対する深みの在る表現力、或いは非常に皮肉を込めて書かれた鋭いナイフの様な尖った表現力に、私はいつ読んでも、どこを読んでも、今でも感動してしまうのです~☆彡

(*^^*) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

 

 

 

 

 

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(東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ

natural & elegance

長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年