「明るく楽しい事だけを追い求める不自然な人」が見落としている事 - 文化・芸術全般 - 専門家プロファイル

舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
東京都
クラシックバレエ教師・振付家

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対象:文化・芸術

大園 エリカ
大園 エリカ
(クラシックバレエ教師・振付家)
大園 エリカ
(クラシックバレエ教師・振付家)

閲覧数順 2024年04月18日更新

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「明るく楽しい事だけを追い求める不自然な人」が見落としている事

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私は近々舞台に立つ為の本格的な"演劇"のリハーサルというものをしているせいか、改めて「人間の感情」というものに色々思いを馳せる自分がおります。

( ・・) ~ ★彡☆彡

 

ちなみに人間には「喜怒哀楽」という様々豊かな感情というものがありますが、皆様はどの感情がお好みですか?

(^^✿

 

大概人間というものは"明るい人"や"楽しい人"が大好きで、「そういう人は人間ができていて素晴らしい!」と感じたり、「自分もできれば常にそうありたい♫」と自分自身に理想を掲げておられる方達も多いと私は思います。

(^^♫

 

それは何故なのかと言うと、誰だって悲しい思いで生きたり、怒りながら不機嫌に生きる事は苦しく感じるものなので、自分の中にも他人の中にも見たくないという心理が働くからですね~。

(^^;(^^;;(^^;;;

 

でも人間が"生きる"という事は、喜んだり楽しい事ばかりではありませんよね?

 

この世のシビアな現実として、各人の人生に伴う"心"というものがそう単純なものではない事は(それが本意であれ、不本意であれ、笑)、この世で人間稼業をしていらっしゃる皆様に取っては、それはお互いが言わずもがな、それぞれが熟知されておられる事実でもありましょう。

(・。・;

 

そこで今回のテーマなのですが…。

 

昔から人間の心の機微に敏感な私は、特に「自分の外側に向けて"やたら明るい自分"をアピールしたがる人間」や「ネガティブな感情を避けたがる人間」が裏に持つ心理というものに、逆に目が行ってしまうのです。

 

つまりそういう方達は、ご自分で気付いていらっしゃらない「自分の中のネガティブから目を逸らしたい」「自分の中のエゴを認めたくない」という深層心理が在るからこその行為に成っているという視野ですね。

(^^;(^^;(^^;(^^;(^^;;

 

ちなみに「東洋医学」では喜び過ぎる事は"過ぎたるは及ばざるが如し"で、心(しん)を痛め健康を損ねるという観方をするのですが、皆様はご存知ですか?

(^^✿

 

この東洋医学的なものの見方は、以前にも別のコラムの記事の中で私はご紹介した記憶がありますが、今回又改めて、より分かり易い解説がされたものを以下にご紹介致します。

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

 

 
 

喜び過ぎて「心」痛める 

 

七つの感情(七情)は、臓腑を傷つけますが、
なかでも心、肝、脾の臓器に影響を与えやすいと言われています。

 

とりわけ、「心」は五臓六腑の中心であり、
精神の変化はまず心の機能に影響を及ぼし、各臓腑に波及していくとされています。

 

七情のうちから、先ずは「喜」について…です。
「素問」陰陽応象大論篇には、「喜は心を傷る」とあります。

 

喜び過ぎると「気がゆるみ、心を傷つける。」というわけです。

 

七情のなかでも他の感情、例えば「怒」や「悲」などは、
内臓の働きに影響を及ぼすと言われても何となく納得出来るのですが、
「喜」=喜びの何が良くないというのでしょうか?

 

内因でいう「喜」とは、過度の喜び…のことです。

 

宝くじで3億円が当たって、狂喜乱舞のあまり心臓発作で倒れたとか、
喜び過ぎて精神が興奮して夜眠れなくなった…などの「喜び」です。

 

「心」には、五神(神気)のうちの最上位にあたる「神」が宿り、
心拍動や呼吸、知覚や精神活動、手足や顔の表情などを正しく行わせるといった
生命活動維持を支配する働きがあるとされています。

 

※五神については、また別の機会に説明します。

 

つまり、東洋医学的な「心」とは、心臓そのもの働きだけで無く、
自律神経機能や間脳、視床下部を含めた「視床」の働きも合わせて指したもの…と考えられます。

 

そのことを念頭において

「喜」が過ぎると…

 

★「気」はゆるむ。
(口元が緩む。笑顔が弾ける。喜びが溢れる…のようにエネルギー的には、拡張傾向でふわふわとした感覚。)

 

★「心」を傷つける。
心の持つ「神」の働きが衰え、
不眠や不安など、精神活動に影響を与える。

<症状>
☆集中力の低下
☆不眠症
☆不安神経症
☆精神錯乱など 

となります。


 

 

以上、ネットでたまたま見つけた、分かり易い解説がされたブログのご紹介でした。

☆_(_☆_)_☆

 

この記事の最後には「次回は、「怒」について…です。」とありましたので、他の人間の感情と、心と身体の健康に付いて更に詳しくお知りになりたい方は、直接この方のホームページを訪問されてみて下さい♫

(^^✿

 

そして「東洋医学」というカテゴリーではないですが、臨床心理学として健康カウンセラーの方が書いた記事も分かり易いのではないかと思うので、こちらもご紹介致しましょう。

 

 

 

 

 All About オールアバウト 健康・医療 より

 

躁的防衛?ハイテンションな人に潜む心の危機

 

いつも元気でテンションが高い人は、ネアカで心の問題とは無縁の人だと思われがち。しかしひょっとしたらそのテンションの高さは、無意識にしている「躁的防衛」によるものかもしれません。ストレスの対処法でもある躁的防衛の特徴と問題点、改善法をご紹介します。


わざと明るく、元気にふるまってしまう躁(そう)的防衛とは

執筆者:大美賀 直子 (産業カウンセラー / ストレスガイド)

 

いつも明るく元気な自分でいたくて、ハイテンションで遊んでしまう……。もしかしたら「躁的防衛」かもしれませんいつも明るく元気でテンションの高い人というのはいるものです。忙しくてストレスの多いときでも「120%元気な自分」でいたがる人。落ち込んだりへこんだりすることが嫌いで「いつでも笑顔」を保とうと頑張る人……。

 

こうしたハイテンションな状態の人は、周りからは「ネアカ」で「エネルギッシュでポジティブな人」に見え、心の健康的に何の問題もない人だと思われがちです。しかしカウンセラーとしての立場からは、彼らの心に「危うさ」が潜んでいるのではないか?と考えずにいられません。

 

臨床心理学には「躁的防衛」という言葉があります。躁的防衛とは、わざと明るい自分や元気な自分を演じることによって、沈んだ気持ちに打ち克とうとする無意識的な防衛行動です。元々は精神分析の理論において、母親との関係をベースにした葛藤から生じる体験とされていますが、一般的には、集団生活やストレスフルな状況に適応しようとする際によく見られます。

 

たとえば、ストレスが増えるとやたらとテンションが高くなり、リフレッシュと称して仲間と騒いだり、飲み会を開いて暴飲暴食に走ったりする人。忙しくしていないと不安になり、やたらと仕事や用事を抱え込む人――。こうした人々は、躁的防衛によってハイテンションな状態をつくりだし、ストレスに対処している可能性があります。

 

躁的防衛のリスク…頼りすぎるとあらゆる面で支障が生じる躁的防衛は、ストレスを短期的に乗り越えていくには、有効に働きます。たとえば、新学期や新年度などの一時的なストレスの対処に役立つことも多いでしょう。

 

しかし、いつもその方法を用いていると、精神的に消耗してしまいます。たとえば、スケジュールが空くのが怖くていつも忙しくしてしまったり、嫌なことを考えたくないからとアルコールに頼って気分を盛り上げてしまったり、一人で夜を過ごしたくないと無理やり仲間たちと騒ぐ習慣ができてしまっていたり……。

 

こうした行動を繰り返していると、精神だけでなく、身体や人生設計、生活管理の面などにも支障が生じてしまいます。では、躁的防衛にはまりすぎてしまう自分をコントロールするためには、何が必要なのでしょうか?

 

 

なぜ躁的防衛を用いてしまうのか……まずは自分を知ろう

 

「躁的防衛に走るのはどんなときだろう?」―自分を振り返ってみましょう 躁的防衛にはまりすぎてしまう自分をコントロールするために必要なこと。その一つが、「自己理解」です。

 

「なぜ自分は無理に忙しくしてしまうのだろう?」「なぜ自分はいつもにぎやかでないといられないのだろう?」

 

このように、自分の認知と行動の傾向を振り返ることです。

 

誰でも新しい環境に適応する際には不安が生じますし、孤独を感じたり、自尊心が傷つけられたりしたときには、憂うつになるでしょう。そうしたとき、一時的に躁的防衛を用いるのは自然なことですし、それによって良い効果が生じることはたくさんあります。

 

しかし、常にテンションを上げて元気をふりまかずにはいられない場合、なぜそうなってしまうのだろうと、振り返ってみることが必要です。ある人は、特定の刺激に反応して、躁的防衛を用いてしまうのかもしれません。またある人は、ストレスに耐える力、対処する力が弱いため、躁的防衛に流れてしまうのかもしれません。

 

自己理解を活かして、対処方法のレパートリーを広げる自己理解によってこうした自分の認知と行動の傾向に気づいたら、「どうしたら改善できるか」を考えてみましょう。そして、できるところから改善を試みてみましょう。

 

特定の刺激に反応して躁的防衛に走っている場合、なるべく強い刺激に触れないようにしたり、あるいは刺激と向き合い、折り合いをつけていくことが必要になるでしょう。たとえば、合コンに行くたびにテンションを上げすぎてしまって、結果として異性とまっすぐに語り合えないような場合、まずは「友達づくり」から始めて異性に慣れていくのも一案です。

 

耐える力が弱いと感じた場合、ストレス発生後すぐに躁的防衛に逃げず、しばらくの間そのストレスと付き合ってみるといいでしょう。つまり、すぐに気晴らしなどで気分を上げようとせず、「ストレスと同居できる力」をつくっていくことです。

 

「対処する力」が弱いと感じた場合、上のような力を伸ばすと共に、有効だと思われる対処法をあれこれ試してみるといいでしょう。たとえば、不快な気持ちをノートに書き出してみる、交渉術を試みるなどして、対処法のレパートリーを広げてみるといいでしょう。

 

長い人生の中では、さまざまなストレスに何度も遭遇します。そうしたときには、「躁的防衛」という一つの方略のみに頼るのではなく、その時々の自分に必要な方法を多角的に検討して、適切な対応ができるようにしていきましょう。

 

 

 

 

以上、こちらも今回のテーマを分かり易く解説して下さっている様な内容でしたので、ご参考までに転載させて頂きました。

☆_(_☆_)_☆

 

今回の様な深いものの観方に初めて触れられた方は、「目から鱗」だとショックを感じた方もいらっしゃるのでは?(笑)

 

でも私達人間は動物とは違い「思考する知的な生きもの」なのですから、色々な事を知って無知を打破して行かなければならない課題があると私は思うのです。

 

東洋思想に繋がる叡智を教える仏教では「無知は一番の恥である」と戒めると聞きますが、きっとそれは智慧・叡智というものが、最終的に私達人間の真の幸福に深く大きく関わって来るという真理からの、必然的な有り難い"慈悲の教え"なのだと私は理解しているのです。

( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

 

 

 

 

 

この子は私が飼っていて、数年前に亡くなったウサギのルビー(♂) ~ ♡

この子が死ぬ時、私に取っては物凄い衝撃的とも言えるとてもインパクトのある死に方をしたので、以前にコラムに書いた事がありました。

 

余談のコラム(友達だったウサギのお話し) ①

余談のコラム(友達だったウサギのお話し) ②

 

 

ちなみに、私は先日「猫が教えてくれたこと」という映画を観て来ました♫

 

この映画はトルコのイスタンブールの港町の素朴な一風景を映し出した静かなドキュメンタリー映画という感じで、そこに人間と共存する野生の猫と、それに関わる人々の営みが良く伝わって来る映画でしたが、

 

猫に限らず動物というのは、人間の様に「他者からどう見られるか?」というエエかっこしいの計算がない自然体であるから、生命力に溢れて美しく、可愛く、そしてカッコ良いのですよね~☆彡

 

彼らは常に自分に正直な存在であるから、人間はそんな彼らの姿に癒される訳ですし、故に私達は彼らを愛さずにはいられないのだと私は思います♡

 

(犬や猫は、宇宙人が人間観察の為に地球に生殖させた生き物だと解釈している方達もいる様ですが、それが事実かどうかはともかく、映画の中でも多分そういう意味とは違う解釈で、猫と宇宙との繋がりを示唆する様な一場面がありました♫)

(*^^*)~♡

 

ちょっとネタバレになりますが、この映画の中で印象に残った言葉が私にはいくつかあり、「犬は人間を神だと思っているが、猫は人間は神様の使者だという事を知っている」という様な内容の言葉もその一つでした。

 

ちなみに猫を嫌う方も世の中には多い様ですが、犬が好きで猫が嫌いという方は「せねばならぬ」の犠牲的精神を善しとする方=自分で気付かずに自分を蔑ろにする"偽善的な犠牲的精神"を善行と信じ切って生きている人で、猫を可愛いと感じる人は「自分に正直で、精神的に自立している自由人」と言われたりしますね?

 

そういう見方で見たら、もしかしたら猫が嫌いという人は、自分に無い「自由」というものを持っている猫を無意識に嫉妬していて、生理的に好きになれないという事なのかもしれませんね?

"(-""-)"

 

そして犬が嫌いという人は、犬の中に在る"奉仕的精神"を"犠牲的精神"と解釈して(※奉仕と犠牲は似て非なるもの)、心地好く感じられない方達なのかもしれないですね。何故なら犬は特に献身的で、実際飼い主の身代わりになるという事が事実として多くあるからです。

(:_;) 

 

人間が何かを否定したり嫌いだと感じる時というのは、大概「自分が欲しくて得られないものを持っている者への"自覚なき(※ある人はまだ軽症デス)嫉妬心"」だったり、「自分の冷たさを自覚したくない」という事からというのも良くあるのですが、

 

こうして見てみると、人間というのはつまり「自分の中のコンプレックスを刺激するもの」に対して、「嫌い」という感情を持つ動物であるというのは間違いがない様でございますね!(笑)

(^^;(^^;:(^^;;;(^^;;;;(^^;;;;;

 

 

…ン? あれれ?

何か随分本題と離れてしまった様な???(笑)

 

では、話を今回のテーマに戻しましょう♫

(^^✿

 

   ↓     ↓     ↓

 

 

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       五臓と五情の繋がり

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                   肝=怒
                   心=喜
                   脾=思
                   肺=悲(憂)
                   腎=恐(驚)  

 

 

 

この世は全てがバランスです。

 

「自分のエゴを認めたくない!」とばかりに楽しい事だけに目を向けて、我を忘れる様に興奮する事を追い求めるという事は、実は逆に自分の中のネガティブを増やして行くというバランス行為に自動的に成ってもいるという事です。

 

ちなみに安易で表面的な楽しい事を追い求め、興奮する事を「生きる事」と勘違いして、自分にも他者にもそれを求めて生きている人達を、私は自分の人生で何人も観て参りましたが、

 

その一見明るい上辺とは裏腹に、彼らの心根というのは実は非常に暗く(※何故ならそれがバランスだからです)、自分の人生を本当の意味で生きていない方達なのですね。

 

こういう方達は、外面では良い人を装うので分かりづらいのですが、自分の身内や身近な者へはエゴ満載の内弁慶で、実は大変ヒステリックな人達です。

 

そして彼らはそれを自分で誤魔化す為に、自分を興奮させる趣味や、自分を忘れる為の仕事にのめり込んだり(=ワーカホリック)、タバコやお酒、酷い人は薬や麻薬などの力を借りないと生きられない様な方達も多いのです。

(◎_◎;)

 

反対に、この世の真理=宇宙の法則を深く理解し、その理解から悟った真の"根本的な心の健康=明るさ"というものを持った方達というのは、

 

前者の様に、エエカッコしいをして自分の外側に向けて「明るく興奮する事を好む自分」や「自分は幸福感満載!」という様なアピールするという事が全然必要ない方達であり、逆にそういう行為に対しては美しさや賢さやカッコよさを全く感じない方達なのです。

 

つまりこういう方達は「他者からどう見られるか?」という事が必要なくなった方達であり、故に外側に向けて「自分はこれだけ明るく生きて幸せ~」とアピールするパフォーマンスをする必要が無い人達なのです。

☆_(_☆_)_☆

 

彼らは常に自然体ですから、自分の感情にはポジティブであれ、ネガティブであれ、怖れる事なくいつも正直に気付いていますし、それから目を背けたり逃げたりという事もしないで済む分、実は心根は健康で明るいのです。(例え表面は仏頂面で不愛想だとしてもです!笑)

(*^^*) ~ ♡

 

この世の真理を俯瞰で実感として深く理解せずに、ただ明るく元気に振る舞いたがる&それが良いと信じている浅い人間ほど、実は内面が情緒不安定な根暗で意地悪だったり、陰湿で嫉妬深い人間であったり、自分の恵まれた環境に胡坐をかいて怠惰であったりするのですから、

 

人間というものは、ただ単に「表面的に明るければ良い」というものでもないという事ですね~。

 

いつも申し上げている様に、結局「自分の中に在るもの」しか、人様に差し上げる事は私達はできないのですから、表面だけお化粧して取り繕った所で、見る人が見ればバレバレ…というか、人間は皆、根本の所(本能=魂)ではその方の真実というものを嗅ぎ分けているのです。

(・_・;)

 

ちなみに「この世の真理を理解した事から来る、本当の心の明るさ」というのは、その人の内面から生まれる喜悦感というものですので、わざわざそれを外にアピールする必要もないですし、又他者によって奪われたり失うという事のないものなのです。

 

ですのでこういう方達は気持ちが安定しており(乱れても、それを自覚しコントロールできる)、自ら何もしなくても「存在だけで人を癒す」とか「存在(生き様)だけで人に気付きを与える」様な方達であったりするのです。

 

そしてこういう方というのは、人によっては逆に「自分の中を見抜かれる疎ましく怖い存在」にもなる様です。(※これは霊性の高い人間が持つ特徴でもあります)

 

又こういう方達に共通するのは、「誰々のせいでやる気が削げた」という様に、自分が自らやると決めた行為に対して、他人を自分に都合の良い言い訳の為に利用し、他者に責任転嫁するという様な事を決してしないという事です。

 

つまり「自分の志の低さを見ようとせずに、やる気の無さを他者のせいにする」という被害者意識を持つという事が無い方達ですので、皆様もどうかバロメーターになさってみて下さい。

☆_(_☆_)_☆

 

そしてこういう方達は謙虚でもあるので、自分が勉強不足で間違っていた事に気付いたり、今までと同じやり方では駄目なのだという様な方向転換が必要と思えた時は、素直にそれを認められる"人間としての素直さ・可愛さ・賢さ・強さ(勇気)"が在るのです。

(^^♡

 

ちなみに(これは皆様にもある事だと思いますが)、私の心が離れてしまう方達というのがたまにおりますが、それは人としての謙虚さを失った人達 = 頑固で石頭な可愛気の無い"傲慢病"に陥った方達ですね~。

(・・;)

 

こういう方達というのは、こちらが何度も心からのメッセージを伝えても、その傲慢さとコンプレックスからのイジケた心で解釈を捻じ曲げ、「自分は絶対間違っていない!」という事に固執して、ちっとも相手が伝えようとしている真意を理解しようとしない方達ですが、

 

「どう理解するか?」という能力も、結局それぞれの人生経験から来る因果というものが関係しているので、私はその都度「お互いの正直な気持ちと事実を淡々と見つめる事」しかできませんし、もしそれが今の自分に取って心地良くない関係になるならば、自然とそういう方達からは私は距離を置きます。

 

ちなみにこういう心が硬直してしまっている方達は、そうなるまでにこちらが心を砕いて何度もメッセージを送っている事に全く気付けない方達なので、彼らにしたら「突然距離を置かれた=裏切られた」様に感じられる様ですが、事実はそうではないのですよ~。

(^^ゞ

 

ちなみに、その方の持つ"志"が、宇宙の法則に沿った本物であれば、何ものにも左右されずに"貫く強さ"というものがその方達には備わっているというのが、私のものの観方です。

( ・・) ~ ☆彡

 

その「貫く強さ」が何から来ているかというと、それは「自分のエゴだけを満足させる興奮」というものが動機ではなく、又「頭で行う慈善事業」などからででもない、自分の中から湧き出る「本物の喜悦感」から生まれる行為だから、本物の情熱が持続できるという事なのです。

( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

つまり何か"自分の外側の出来事や人物によって、自分の情熱が冷めてしまった"というのなら、それは最初からその情熱が純粋なものからではなかったという事に過ぎないのだと私は思います。

"(-""-)"

 

「真に純粋な動機のものほど、本物の強い情熱が持続する」というのが私が人間を観る時のバロメーターです。

 

そういう静かで熱いものを内に秘める方達は、「自己責任で自分の人生を生きている素敵な大人の方達」ですから、誰かや何かに責任転嫁をする為の言い訳や、自分がしない理由として「エエカッコしいをして、自分を汚さない様に他者に嘘を言う」という行為は決してしない清い人達です。

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

これは余談になりますが…。

 

これはバレエの舞台でもそうでしたが、最近本格的に始めた演劇でも、私は演技する時は全く何も考えず、その瞬間々々自分の感性に任せるスタイルであり、つまり演じている時、私は非常に動物的です。(笑)

(^^ゞ

台本を読み込んで行く内に、自分の中に勝手にその人物像(イメージ)が自然に湧き上がり、そして覚えたセリフに心からの感情を込めて自然に演じている感覚ですね~。だから私は毎回同じ様には演じられません。

 

そういう意味で「演技は生ものである」という事を、最近改めてリハーサルの度に実感している所です。

( ・・) ~ ☆彡

 

 

そしてこれもバレエダンサーにも共通して言える事ですが、演者には「役を作る」タイプと「役に成り切る」タイプがある様に思います。

 

同じ天才と言われる方でも「先天的(生まれつきの)天才」と言われるタイプの方と、「後天的(努力の)天才」と言われるタイプの方がおられますよね?(勿論生まれ持った才能を授けられた方も、努力無しでは凡人以下に堕ちるという事だって有り得るというのが、厳しい芸事の世界でもあります)

 

どちらもそれぞれ見せ方があり、技術があればどちらも成立するそれぞれの"スタイル"なのですが、結局は観客の好みという事になりますでしょうか。

 

ちなみに私は、観ている者をいつの間にか自然にそのドラマにス―と引き込んでしまう「役に成り切るタイプ」の役者やダンサーが、スリリングで面白くて好きだと感じる事が多いです♡

(*^^*) ~ ♡

 

中には「この人は、何を演じても同じに見える」というタイプの役者さんやダンサーもたまにおりますが、玄人目には下手くそであっても、その役者自身に人間としての魅力があれば、それもスターとして成立してしまう世界でもあるというのが、非常に面白い芸事の世界でもあります。

(^^✿✿✿

 

 

 

人間というものを表に見えている面だけで判断したら、その中に在る深いものには私達は気付けないのです。

 

そういう意味では特に「演劇」をやっている様な方達というのは、仮想であっても真剣に役作りをして様々な人物の人生を生きるという作業をしている分、人間観察に長けておられる方も多いのではないかと私は思うのですよ。

 

勿論全ての役者の方達がそうだとは思いませんが、少なくともそういう機会のない人間よりも、数々の役を通して(人間の持つ"業"というもの含め)、様々な感情の中に秘められた非常に深いものを必然的にクールに観察できている方が多いかもしれないという事です。

 

バレエもそうですが、プロのダンサーや役者が表現する「演技」には、それを演じる者の人生観や霊性というものが、怖いほど裸にされ露わにされるものではないかと私は感じています。

 

私は今演劇のリハーサルをしながら、それに関わるに全ての人達を通して、毎回色々な方達から学ばせて頂く機会も多く、それが自分自身に対しての新たな発見に繋がったりしているので、自分の中ではとても面白い学びだと感じています♫

☆_(_☆_)_☆

 

(久々のコラム、こんなに長くなるとは思いもしませんでした~。書いていて自分でビックリ!? 笑)

\(◎o◎)/!

 

 

 

 

 

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(東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ

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長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年