智慧の目を開くということ
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徒然日記
2014-12-17 08:00
何が危険かと言えば、思い違いをしやすい…ということです。
理解することと腑に落とすことを取り違えてはなりません。
知識というのは分別の思いを強くします。
「分かった!」という分別で、実のところは何も分かっていないのです。
ところが、その「分かった!」という思いは、何も分かっていない自分すらも見えなくさせてしまいます。
結局のところ、その経験を経ないと分からないことなので、必要なことと言えば必要なわけですが、気付くきっかけが無いと最後まで分からないことも多いのです。
故に、大変な思いをした人ほど、幸せになれる…ということでもあります。
智慧というのは心に慈悲と自由をもたらします。
別な言い方をすれば、感性と理性ということにもなるでしょうか。
智慧を得る途中で、感性の働きである慈悲が湧いてくるのは間違い無いのではありますが、まだまだ感情の世界ですから、理性的な働きというものが足りません。
理性が足りないということは、善悪を感情的に判断してしまう…ということです。
言っていることは愛に溢れていて尤もな話に聞こえるのですが、その思いに捉われて視野が狭くなってしまっていることに気付きません。
「空」を「空しい」と理解するような、感性だけの浅い愛だけだと、自分の強い思いに縛られるのです。
つまり心に自由が無いのですね。
そこにもう一つ理性というものがバランス良く加わってくると、より広く立体的に物事を捉えられるようになります。
慈悲の心だけ開いた状態は、片目だけ見えるようになったような状態です。
今まで目を瞑っていたものが見えるようになったのですから、それだけでも感動的なことなのです。
ですが、片目だけでは遠近感も分かりにくいですし、どうしても視野が狭いですから、人とぶつかってしまうようになってしまうのですよね。
いくら光を捉えられるようになったとしても、まだまだレンズが曇っているのですから、世界の広さや美しさというものの一端しか分かっていません。
でも見えるのだから、「分かったつもり」になるのです。
物凄く視力の良い人が富士山の登山者が見えるように、サバンナで遠くの動物を見つけられるように、遥か先を見通すことが出来るからこそ、道案内も出来るし、危険察知も可能となります。
眼が開き始めたばかりの人に、「まだ全然見えていないから気を付けましょうね。」とアドバイスが出来るのも、眼が開いているが故なのです。
智慧の眼というものは、コンタクトやメガネのように器具を使用して矯正することが出来ません。
レーシックのような手術で一瞬のうちに見えるようになるということもありません。
一時的に見えたつもりになっても、矯正器具が壊れてしまえば、自分が何も見えていなかったことに気付くでしょう。
後々になって手術の弊害というものが出てきた時、二度と視力回復が出来ないようになるかもしれません。
どうやって智慧の眼を開発していくかと言えば、目へ良い質の血液の流れを改善してあげるように、真理を得て実践していく必要があるのです。
真理を得たつもりになってはいけません。
真理と実践はセットであって、どちらかだけではいけないのです。
「世の中が見えたつもりになるな!」
10メートル先の文字しか見えなかったものが、100メートル先まで見えるようになり、地平線の先まで見渡せるようになり、更には銀河系から宇宙の果てまで見通せるようになる…。
そんな果ての無いものだと思ってもらった方が良いのかもしれません。
知識に捉われず、感情に縛られず…。
見えたつもり、分かったつもりにならず、ただ一生懸命、実践に励むことが大切なのですよね。
分かったつもりの人は、分かったように見せかけている人を見抜くことも出来ません。
学びましょう、実践していきましょう。
そうすれば、徐々に智慧の眼が開いてくるようになります。
私も含めた身近な人達から、生きとし生ける全ての人間の眼が開いていきますように…。
心より願っております。
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