方便の先にある真理
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徒然日記
2014-05-05 08:00
まず第一に自分が理解していないと相手に伝えることが出来ません。
そして、相手の理解力に応じて臨機応変に伝えていく必要もあります。
これを仏教の言葉では「対機説法」と言います。
お釈迦様は、この対機説法というものが素晴らしく上手な方でした。
私の師である松井さんも、この対機説法が上手かったのです。
分かりやすい例えで言えば、普段なまけている人には「もっと頑張れ!」と言います。
一方、頑張りすぎている人には「もう少し力を抜け!」と言います。
教えを聞いたそれぞれの人からすると、お釈迦様はこのように言っていた…という話しが真逆の内容になるわけです。
誰かに何かを教えるには、この対機説法というものが身に付いていけばいいのですが、それには並大抵のことでは手に入れることが出来ません。
対機説法が出来るようになるためには、真理への深い理解力と、相手を見抜く洞察力が必要だからです。
相手に合わせて教えを変えることは、方便という言い方もします。
「嘘も方便」と言いますが、真理へ到達させるための対機説法なわけです。
仏教には自他一体の真理というものがあります。
その真理を腑に落とすためには、まず「零」を知り、「一」を知る…という道筋を辿るわけですが、いきなり「一」の話しをしても赤ん坊には理解出来ないわけです。
故に、まずは「零」に到達させるための内容を話します。
しかし、「零」に興味が湧かない人もいるわけです。
「零」ではなく「霊」の話しなら興味を持つ人がいたとしましょう。
その場合、相手が興味を惹くように「霊」の話しからしていきます。
それから徐々に「零」にシフトして、「一」に持っていく…ということをするわけです。
上記の例の場合には、「霊」の話しが方便ということになります。
全ては幸せな実相の世界である「一」に到達させるための方便なのですが…。
その方便が全てだと思ってしまい「霊」の世界から抜け出せなくなる人もいるわけです。
人間の思い込みというものは非常に強いものですから、一度「霊」の世界があると思ってしまうと、その執着から離れられなくなることもあるのです。
これは、赤ちゃんをなだめるために使ったおしゃぶりを、大きくなっても手放せないようなものです。
大人になるためには、成長の過程でいつかおしゃぶりを手放す必要があるわけです。
真理に到達するためには、方便で満足していてはいけません。
仏教の真理に到達させるための表面上の良い話だけで満足しているのは、おしゃぶりを与えられて手放せない赤ん坊と同じようなものなのです。
なんとしても「一」なる世界を知ってもらいたい。
そのためにお釈迦様は数々の方便を使って真理へ導こうとしたのです。
相手の話しを聞く者は、方便だけで満足しないように気を付けねばなりません。
相手に話しを伝える者は、方便を使って目的地へ辿り着くように意識せねばなりません。
「あの人がこう言っていた…。」
と、誰かの話に捉われず、もっと広い視野を持つように意識してみてはいかがでしょうか?
今の自分が捉われているものは何なのか?
その根本には何があるのか?
それは、真理というものを学ぶ上で、とても大切なものだと思います。
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