人を教える事と指導する事の違い (見極める能力・引き出す能力)考察 - 文化・芸術全般 - 専門家プロファイル

舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
東京都
クラシックバレエ教師・振付家

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対象:文化・芸術

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人を教える事と指導する事の違い (見極める能力・引き出す能力)考察

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今回は、私が先日アメブロの方で読ませて頂いた記事をご紹介致します♫

(^^✿

 

最近私は自分の専門分野とは畑違いの「演劇」というものを学ぶ中で、久し振りにものを教わる立場になっているという事もあってか、改めて「人を指導する」「人から指導を受ける」という事に付いて色々と感じる事が多いせいなのでしょうか、ここで書かれている事に深く共感できたからです♫

 

(※ちなみに今回の私のコラムのテーマは、この記事を読んだ時に「これは指導者という立場の者にも共通する内容でもある」と私が勝手に感じて頭に浮かんだものなので、彼女が指導者に付いて書いている訳ではありません)

☆_(_☆_)_☆

 

自分の人生を振り返ると、私は幸せな事に若い頃から自分の目指した道では、常に本物を知っている上質な指導者やパートナーの方達とのご縁がありましたし、どこかに出向けば必ずそこのトップである方に非常に目をかけて頂いたという幸せな生徒でもあったと同時に、自分自身も十代の頃からずっと人様を指導するという立場でもあったので、

 

その自分の長年の両方の実践経験から培った「良き指導者とは何ぞや?」「天才、或いは優秀な生徒に必要な資質とはどういうものか?」というものに対しての自分なりの"眼"というものを持っている故か、特に他者が実践している「人への指導」というものに対しては、もしかしたら他の方々より色々と感じる事が多いのかもしれないなぁと自分では感じています。

( ・・)~☆彡

 

そしてそれは、こうしてコラムを通して私が皆様にメッセージをお伝えするという行為にも多く共通するものでもあると最近自分では思うのです。

 

指導者という立場であれ、教えや指導を受けるという立場であれ、これはこれまで自分が幾度となく味わわされる感覚であり、故に以前にもコラムでお伝えしている事でもあり、つまりこれは私達人間の営みの中で、結局最終的には全てのものに繋がって来る奥深いテーマなのではないかとも私は昔から感じているのでしょう。

( ・・) ~ ☆彡

 

 

ではでは今回の本題に参ります♫

(^^✿

 

私は"書く"という事が好きらしく、最近も「何か書きたい♡」とは常に思うのですけれど、正直以前みたいに「毎日伝えたい事がワンサカ有って、テーマが次々と浮かんで来て、テーマが決まればサラサラ書ける」という感じではなくなりつつあるというのが正直な所なのです。

 

この様に「書きたいと思うのに、何故か書けない」様な感覚が自分の中で増えてしまったのは、以前にもお伝えした様に「今の段階で、もう自分の中での伝えたい事は全て書き尽くして来た」という感覚があるからなのかもしれません。

 

それと同時に(※これは今回ご紹介させて頂くうめままさんの記事の中にも書かれておりますが)、人はそれぞれ様々な個性を持っているので、私という個性の人間が経験し得られたもの=自分が俯瞰で理解し体得した感覚や価値観などを、こうして外(他者)に向かって発信するという事の意味や意義というものに対して、私自身が以前とは違う感覚を持つ様になってしまったからなのかもしれません。

 

ちなみに今回ご紹介する記事の執筆者であるうめままさんと私は、「ホシゴイ(ゴイサギの幼鳥)」という珍しい鳥に、ばったり遭遇する」というとても不思議で貴重な経験をお互いに持ったという事がキッカケでAmebaブログで知り合い、それでお互いが読者登録をしているというご縁なので、そんなに親しい間柄という訳ではもなくお互い面識も全くないのですが、

(※詳しくはこちらをご覧下さい→「ゴイサギの幼鳥「ホシゴイ(星五位)」に偶然遭遇した人は、人生に劇的な変化が訪れる!

 

私が今回の彼女の記事に深く共感できるのは、常に"自然"というものに対峙する「農業」というものに携わる生活を彼女がされている事から得られている、その素晴らしい感性から来る洞察力(気付き)なのです。

 

それは「宇宙の叡智=自然=生きた教訓」というものを常にリアルに身近に感じられる環境だからこそ得られる洞察力であり、そしてそれは元々彼女が中に持っている"知的で繊細な感性"があるからこそ得られておられる感覚なのだと思います。

 

私がこの世で一番尊敬する職業の一つとして、私達の生命を繋いでくれる"食"というものに携わる「農業」を営んでおられる方達がおられますが、

 

それは何故かと言うと、彼らは常に必然的に"自然"というものに向き合っている分、それこそ自然に「地球」や「宇宙」というものから得られる叡智に触れたり、「与えられる恩恵」や「生命力」というものに触れたり感謝できる機会が多い方達でもあると私は感じるからなのです。

☆_(_☆_)_☆

 

それでは、そのうめままさんのブログをご覧下さい♫

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春分も過ぎて…。」  

アストロファーム   ~そらをみあげて~  より

 

 

今回のこの記事の中で、彼女が「育つ野菜にはそれぞれ個性があり、それは人間社会とも共通するものを感じる」として表現された所の件(くだり)は、正に真理であり素晴らしい!…と私は感じました♡

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と同時に、最近私自身が色々な経験を通して改めて強く再確認する事は、「誰も自分の個性を欠点と捉えなくて良い」という事と、「人の個性を欠点と捉え、自分の狭い視野からの主観と好みで相手を変えようとコントロール支配したがる他者」という"愛が不在の相手"とは無理に付き合わなくて良い=お互いがそれぞれ心地が良いと感じられる世界に住み分けて良いのだという事です。

 

それぞれが「自分には無い相手の個性を認め合い、お互いを生かし合える」という関係こそが、この世で一番素晴らしい感性である"感謝"というものを生み出す根源なのですから、お互いの幸せの為にはこれはとても大事な事なのです。

( ・・) ~ ☆彡

 

そもそも「人には欠点がある」という発想そのものが、私は間違っていると思います。

 

何故なら自分含めてどこにも"完璧な人間"などいないのですし、又それぞれの個性が違うからこそお互いの能力が発揮される訳で、そこに優越感やコンプレックスから来る闘争心、そして罪悪感や自己否定や他者否定、そこから生まれる無力感などを感じる必要など本当は無いからです。

 

本来私達はその様に「お互いに自分の個性や才能を必要としたりされたり」という事で、個性の違う相手をお互いが認め合い感謝できる様に成っています。

 

それなのに、自分や相手に対して「個性を欠点と捉える」という事は、実はそれは人間として一番エゴな行為であり、故に「人間が持たないで良い罪悪感やコンプレックスを生み出し、それが苦しみや怒り、酷い時には憎悪というものを生み出す元凶」にも成って行くのです。

 

何故なら人間が人間を憎む時というのは、自分の個性や才能含む人格を否定され蔑ろにされた時しかないからです。

(^^;

 

ですのでもし人を指導する立場の者が、その様な歪んだ発想から人を"教える=自分のやって来たやり方を真似させる"場合、そういう歪んだ根本を持つが故に相手に説得力を持つ事ができず、酷いケースでは相手の才能や良さを引き出すどころか「個性を殺してしまう」という事も起こり得るのです。(※教える側に歪みがなく相手に対して愛が在る=成熟した人格を持つ方が教えた場合の結果はそうはなりませんので、そこがバロメーターになるでしょうか)

 

ちなみに賢い人間はその様な指導を受けても、相手を"反面教師"として学べる知恵があるので問題はありません。何故なら教わる側が教える側のエゴから来るコンプレックスや闘争心や虚勢を張った優越感、そして愛情飢餓からくる自己顕示欲というものを見破ってしまうからですね。

(^^ゞ

 

それができるのは、教わる側の人格が教える側より成熟している場合なのですが、でもそういうケースは両者に取って(※特に教える側の人格が拙い場合は)、あまりハッピーな学びにはならない場合が多いです。

 

つまり何をお伝えしたいのかと言うと、自分の中の自己否定や罪悪感やコンプレックス、そして愛情飢餓から来る病的な自己顕示欲などが解消されていないエナジーバンパイアの方達は、自分の持っている経験から得られた才能で他者を"教える"事はできても、"指導"する資質と資格というものは持っていないという事なのです。

 

つまりどの様な道であっても、良く言われる様に「良いプレーヤ—が、良い指導者になれるかどうかは又別である」という事ですね。人を指導する立場の者には、より"人格に関わる資質・資格=精神的に自立した大人である"というものが必要とされるのです。

 

でもこの世の中では教わる側の方にも、本来は持たなくて良い無意識の自己否定や罪悪感やコンプレックスを抱えた方達がこれ又ワンサカいらっしゃるので、

 

物事を歪んで捉えるケースや、逆に私情を入れて美化し過ぎて見てしまう(※これも歪んだものの見方デス)ケースも多く、故にそういう方達はその曇った眼により自己判断に確信と自信が持てない事から、エナジーバンパイアである指導者との人間関係に悶々と悩んだりしている様です。

 

この世は玉石混交なので、教わる側も自分の歪みを取る事で感性を研ぎ澄まして行かないとなかなか見分ける事は難しいのですが、私はこの世は「人を"指導"する能力と人格が育っていない人=自分の内面に歪みを持った人に教わる事から生まれる悲劇」に満ち溢れている世界でもある様に感じます。

(・。・;

 

ちなみに人様と関わる時には、どういう立場であっても、お互いに"感謝"というものが存在しない場所には「本物の生きる喜び=努力する喜び・楽しさ=充実感・幸福感」は存在できません。

 

でもお互いがその様な世界で自分の個性が生かし生かされる様になる為には、私達は例外なく「まず自分自身と対峙する事が先である」という事なのです。

 

何故なら自分の中に、未だに消化されていないコンプレックスや自己否定や罪悪感、自己憐憫(被害者意識)、又そこから生まれる虚栄心や闘争心、傲慢さ、或いは情熱の不在(無気力)などが在る人は、無意識に他者にそれを投影する=歪んだものの見方をする故に、「相手の真実=個性」というものが真っ直ぐ見えなくなるからです。

 

良くも悪くも「自分の個性」というものを謙虚に認めたがらない方達というのは、「誰にでも得手・不得手(向き・不向き)がある」という発想がなく、故にないものねだりや罪悪感から自分の個性を「自分の欠点」と捉える方が多い様なのですが、

 

でもそうして自分の個性をコンプレックスにしてしまい、他者とは違う自分にしか持てないユニークな素晴らしさに気付けていない人が、どうやって他者の個性というユニークな素晴らしさに気付く事ができるでしょうか?

 

そして逆に、自分にも世間にも「あの方は謙虚」と勘違い評価される事の多い「他者の素晴らしさにばかり囚われて、他者を羨望する事で自分を蔑ろにし、媚びから遜る事を謙虚と思い込んでいる」方達や、

 

「自分の持っている才能や能力の事実を、自身で肯定的に語る存在を許さない=自分のコンプレックスを刺激される事から生まれる他者への怒り」を無意識に内面に抱えている方達も同様です。

(^^;(^^;;(^^;;;

 

どちらのタイプにしても、結局根に強いコンプレックスを持つ者というのは、例外なく常に(心の中で、或いはあからさまに)他者と優劣を競う様な思考の持ち主ですから、人を愛するという事ができない方達なのです。

 

愛する事ができないのですから、当然人からの愛も受け取れません。(※「自分が他者に与えたものが自分の受け取るもの」「この世は与えることが先であり、逆はないという自己責任の法則」=因果の法則)

 

コンプレックスというものも、実は世間や社会からの洗脳で培われた間違った思考癖=無知から生まれるものであり、本来は持たなくて良いものなのですが、世の中にはこういうものを無自覚に自分の中に抱えたまま「人を指導する」という立場に立たれていらっしゃる方が大半の様に私はお見受け致します。

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ちなみに私はこの様なタイプの方達を"隠れ傲慢な方達"と呼ばせて頂いておりますが、殆どの方が世間や社会に洗脳されている事から無意識に培われてしまうのが、この"偽の謙虚さ"であり、私の眼から視れば、その間違った思考癖が、本当はシンプルであるこの世の中や人間関係を、わざわざ複雑にややこしいものにさせているのです。

 

そういう思考を好む方達の多くは「ありのままの自分に自信がない=ありのままの自分に向き合う事・真実の自分を認める事を怖がる」という方が大変多く、

 

それを虚栄心というものでカバーしたがるという傾向がありますので、是非バロメーターになさってみて下さい。(※これも実は「自分のありのままを愛せない大人達」に囲まれ育てられた事から来る無意識の思考癖から生まれる行為なのですが…)

 

又そうした"謙虚さ"というものを履き違えておられている事に、本人が気付いておられない事が大半なので、この「偽・謙虚」は或る意味とても質が悪いとも言えます。(※だって自分は謙虚で善い人間だと信じて疑わないのですから)

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ちなみにこういう人が指導者になると、指導される側が非常に気を遣い、指導者の自己顕示欲や優位性を常に満たしてあげなくてはならないという様な"お守り"をさせられる様になるので、それもバロメーターでしょうか。つまりこの様な方達は本当は指導者に成る資格はない「愛情飢餓から来る不毛なエナジーバンパイア」という事ですね。

 

こういう方達は表面的にはどうであれ、常に自分を優位に立たせる事しか目的がない=他者への愛が無いので、人に劣等感を持たせて落ち込ませる事には長けていますが、人を指導する=人の能力を引き出す=他者の波動(氣)を上げる=その場の空気を透明で軽やかなものに変えるという能力は授からないのです。

 

彼らの多くは無自覚に(でもだから根が深い)「相手を自分以下に引き下げようとする事で、自分を上げようとする」という事から生まれる重たい波動を根に持ちながら人を教えるので、指導を受けた側は指導者には真の純粋な情熱を感じられなくなるのです。

 

ちなみにこういう方達は「相手に分からないだろう」と自分のする事に手を抜く様な方が多いのですが、実はそれは波動で相手にはちゃんと伝わっているのですよね~。ですので教えを受ける方は非常に時間が長く感じられて退屈したり苦痛に感じ始めます。

"(-""-)"

 

指導者にそういう根があれば、その場の波動が重くなるのは当たり前で、つまり教わる側は指導者(エナジーバンパイア)に自分のエネルギーを吸い取られてしまう様な時間になってしまうからで、だから飽きたり疲れを感じたりするのです。

(-_-;)

 

そういう事を知っていてもいなくても、人間というのは結局無意識に相手やその場の波動を読み取って判断している動物なのですから、そういう不誠実なものはすぐに相手に伝わってしまうという事です。(※人間はお互い霊的な生きものであるのですから侮るなかれ~)

\(◎o◎)/!

 

これは師弟関係に限らず、親子始めとした家族や親族関係・夫婦関係・友人関係含む全ての人間関係に於いても言える事ですが、その様な不毛で疲れる人間関係にお互いがならない為にも、私達は「他者の為に…」という前に、まずは「徹底的に孤独になって、能動的に自分の内面に向き合う事が先」ではないかと私は思います。

 

「徹底的に孤独になる」という事が何故不可欠になるのかというと、実はそれが一番"人を大人にさせる"からです。人間という雑念思考の多い生き物は、徹底的に孤独になる時間を持たなければ、決して本当の自分と向き合う事はできないのです。

 

そういう事を経験した結果得られる「自分の真実と向き合える事ができた大人=自分の全てを受け入れ、ありのままの自分を許し、自分に敬意を払い愛する事ができた真の慈愛(優しさ)と慈悲(人間の成長に欠かせない愛からの厳しさ)を持つ事のできた大人」の方達が、世の中を良く変化させて行く根源になるという信念を私は持つのです。

 

これは私自身が自分の経験からそう感じる事でもありますし、又いつの時代も古今東西の聖人・賢人と呼ばれた方達が実践し伝えられて来た真理でもあり、そういう経験を持てる段階に来た成熟した大人でなければ、本当の意味での「人を指導する」という能力は持てないものではないか?と私は思います。

 

何故なら、自分がやって来た事を他者に"教える"という事は誰でも(子供にも!)できますが、人を"指導=相手の能力を引き出す・個性と才能を生かす"という、本当の意味での指導ができる能力=人格というのは、それとは全然違う才能・才覚になるからです。

 

そしてこれは一方通行というものでは勿論なく、そこに指導を受ける側の資質と能力(理解できる叡智を授かる時期=縁=因果の法則による)があってこそ、成立するというバランスも当然あるのです。

 

最近私が「コラムを書く」という事に対して、その意義や意識が私自身の中で変化しているというのも、その様な事を自分の中では色々立場を変えて、以前よりより深く感じているからなのでしょうねぇ、多分…。

( ・・) ~ ☆彡

 

 

 

 

 

私のお気に入りの公園の桜~♡

でもこれは昨年の写真。今年の桜はこれから撮ります♫

(^^✿✿✿

 

 

 

本物の愛が在る時は私達の魂は引き上げられ、その"喜び"というエネルギーから、その場全体の波動が上がるのを感じます。そういう場というのは「退屈」や「疲れ」「不愉快」という不快なものが不在ですので、それがバロメーターです。

 

そしてその明るく軽い波動は「努力する事の楽しさを味わえる時間」に自然に成るので、アッという間に時間が流れる様に感じますし、且つその時間は非常に密度の濃い充実した時間と感じられるので、その感覚が私の「本物の指導者かどうか?」「良い氣を放つ事のできるパワーを持たれた方か?」を見極めるバロメーターになります。

( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

これは指導者が「優しさ(慈愛)」というもので指導されても、「厳しさ(慈悲)」というもので諭されても、本物の愛が存在している時は全体の波動を引き上げてしまうものなので、私にはすぐ判ります。

 

ですが、波動が違い過ぎる人間同士ですと"快"を感じる感覚がお互いに違いますので、お互いの平和の為に"住み分け"というものが必要になりますけれどね~♫

 

私は慈愛と慈悲、そして本物ではない愛に対しては非常に繊細で敏感です♡

そしてこれが私の個性なのです♫

(*^^*) ~ ♡

 

P.S

そういう個性を持った私は,、高校生の時から40年近く人様を指導するという立場におりましたが、どんなに疲れていても相手に対するハート(波動)を忘れた事はなく、故に一度も教えに手を抜いた事はなかったというのが自分自身に対する誇りでしょうか♫

( ・・) ~ ♡ ♡ ♡

 

 

 

 

 

 

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(東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ

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長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年