- 敷浪 一哉
- 有限会社シキナミカズヤ建築研究所
- 建築家
対象:住宅設計・構造
つまり、授業は先生の知識を生徒に伝えるのではなく、生徒どうしで議論をさせて、それを先生がコントロールする。
授業で必要なのは結論ではなくて「きっかけ」なんですよ。
先生はがんばってなんでもかんでも教えなければならないというプレッシャーが少なからずあると思います。
でも、きっかけさえ植えつけられれば、子供は面白がって自分で調べますよ。
ここで建築に置き換えてみますが、いわゆる造り込みすぎるということはその建物に結論を与えてしまうことになるんでしょう。
家族に、社会にきっかけを与える建築になるのが理想ということでしょうか。
実は数日前に、小学校の先生の日常を追ったドキュメントを見ました。小学校は担任の先生が全部の教科を教えますよね。
休み時間も給食の時間も事務仕事に追われ、生徒と向き合って会話できる環境にはない実体をみました。
この討論番組でも同様の問題が指摘され、人員を増やすべきだとか、いやいやその前に効率化を図るべきだとか、そういう議論がされてました。
僕は多少無駄でも人を増やすべきだと思います。効率化を上げれば、少ない人数でたくさんの処理ができます。しかし、人間が人間に行う教育という場ではあまり効率化はいい方向にはいかないんじゃないかと思います。
例えばテストを効率化するのにマークシートにしたりとか、別の人間が採点したりとか。
生徒の答案の癖とか、字体とか、そういうところから性格や心理状態が表れるものです。そういうものを採点しながら読み取ることも先生の大事な仕事だと思います。
作文なんかだとなおさらですよね。
じゃあどうするかというと一人当たりの人数を減らすしかないんじゃないかなと思います。
番組の中でも、フィンランドと日本の違いは一クラスの人数の違いだけなんだ、という話がありました。