自分の建築との違い
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2006-11-28 00:00
とても力の入った作品。
コンクリート・鉄板・練られた執念のディテール、
それらが身体に訴えてくる重厚さを、各所に設けられた抜けが緩和していく。
また、街道側をガラスで解放していながらも、
全解放とは異なるほどよい解放感に落ち着けている妙、
秀逸なテクニックとこの高いクオリティを実現する執念に、唸るばかり。
ある意味「踏込んではいけない濃い領域」を見てしまった感じがする。
こうしてひとの作品を体験すると、自分の建築との違いがよくわかる。
Kさんの作品は建築のどの部位を見ても、一分の隙もなくデザインがなされていたが、
僕の場合ここまで突き詰められない。
老練してディテールがウマくなったとしても、たぶんしないだろう。
いやいや、さぼっているわけじゃなくて、成果物には作りの手の思考した痕跡をあまり残したくないのですよ。
建築物そのものをじっと鑑賞するに耐えるものとしてつくるのではなく、
光や影や風や音や眺め、それらが織りなす幻影、僕の場合の建築とは『現象を産む装置』なのである。
Kさんは「建築を映画のようにつくりたい」と言っていた。
やっぱり僕は「建築を楽器のようにようにつくりたい」のだ。
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このコラムの執筆専門家
- 須永 豪
- (長野県 / 建築家)
- 須永豪・サバイバルデザイン
響きあう木の空間
森や山と人、地球が健全に回っていく様子を見届けたい。 木を街に届け人の営みに森をもたらし木が、森が、地球が、生命が、人が、そして星々や宇宙までもが響あいはじめるそんな木の建築空間宇宙の意図が起動する響きあう木の空間をつくろう