- 野平 史彦
- 株式会社野平都市建築研究所 代表取締役
- 千葉県
- 建築家
対象:住宅設計・構造
氷河期にマンモスを追ってシベリアからやってきた人々が最初の日本人であると考えられていますが、その子孫である縄文人の竪穴式住居は北方系の「冬型住居」で、北海道には地下室のある大型の竪穴式住居の遺構があり、断熱性と気密性を持たせるために行われたと思われる土葺き屋根住居は6世紀頃まで東日本各地の遺跡から確認されています。
後に南方から渡来した人々によって高床式の「夏型住居」が造られるようになりますが、農耕が始まって余剰生産物を保存する必要が生じると、地面の湿気から穀物を守るためにまず造られたのが高床式の貯蔵庫だったと言われています。
高温多湿の東南アジア地域では古くから高床式住居が造られ、先の「校倉造り」の宝物殿もこうした流れを汲んでいると言えます。床下に風を通す「高床」は地面からの湿気を防ぎ、その居住性の良さから次第に住居にも取り入れられるようになってゆきます。古墳時代には、まだ庶民の住居は竪穴式を継承していましたが、豪族達の間では高床式住居が確立していたと考えられています。
こうして日本の住居は竪穴式の冬型住居から次第に高床式の「夏を旨とする」夏型住居に移行してゆくことになりますが、この高床を可能にしてくれた材料が「木」であり、風を通す住居としての開放性を可能にしてくれたのが柱と梁で組み上げることのできる軽くて丈夫な「木」だったのです。
そして、木は湿気によって腐れを起こす素材であるためその架構の中にも湿気を貯めないために空気が流れる工夫が必要であり、そこに発達した技術とは、家中のいたるところに風を通す「隙間」を作る技術であったとも言えます。
こうして湿気による蒸し暑さを、家の中に風を通すことで和らげようと考え、木造によってそれを可能にしたのが古代から現在に至る日本の「森林の家」であり、湿った空気が「森林の思考」を育てたのです。
以上のように、様々な気候条件の中でもとりわけ「湿度」は洋の東西を問わず住居の基本構造を決定付ける重要な要件であり、日本の家造りは現在においてもこの「湿度」と深く関わり続けています。