- 大園 エリカ
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
- 東京都
- クラシックバレエ教師・振付家
今回記事をお互いにシェアし合ったうめままさんのブログが更新されていて、そこには今回の彼女のシリーズ記事での素敵なエピローグが書かれておりましたので、又お伝えしたいと思います~☆彡
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私は彼女の「自分や他者を客観視できる良い意味でのクールさ」と、そして「自分に関わる人達へのそれぞれの思いからの学びや気付き」に、彼女の繊細さと知性、そして人間らしい血の通った温かいハートを感じます♡
人間関係で自分以外の他者の為にも真剣に悩むという事は、とても知性的で心が優しいからなのです。
こういうピュアな方は「正直で誠実なハート」を持つ故に、自分と他者に対して嘘が付けない分、偽善に対してもとても敏感な感覚を持っていらっしゃるという事なのです。
これは「人間は人格(霊格)が育つほど、嘘というものに耐えられなくなるという感性・資質を持つ」という事であり、それは宇宙の法則=この世の真理に自然に則した「幸せに繋がる叡智を持った方の特徴」でもあるのです。
うめままさん、素敵です~☆彡
(*^^*) ~ ♡
それでは以下、今回のうめままさんの記事の転載です♫
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エピローグ「教える事と指導する事の違い (見極める能力・引き出す能力」
アストロファーム ~そらをみあげて~ (うめままさんのブログ)より
今回、エリカさんのブログ記事に刺激され、私も書きたい!と、想い、3つの記事にわけて、「教える事と指導する事の違い」について書かせていただきました。
書きながら、「私、、、どこに着地するんだろう~~~」という部分も出てきました。そして、結局は、教えられる方たちへのメッセージが大きくなったものとなりました。
私たちが、教わった方たちも、また、誰かに教わっているのですもんね。そして、書いてみて、この件に関しては書きたいことが多すぎるとも感じました。
占い師になりたい!と思い、占いの世界に飛び込み、実際に人様を占うようになってから、いろんな経験をさせていただきました。
ブログには、「指導する側される側」という表現を使いましたが、これは「占う側、占われる側」という言葉に置き換えても良いかもしれません。
占う側としては、決定権は必ずクライアントさんにあるということを忘れると大変なことになります。占われる側も、「どんな結果が出ても、決めるのは私だ」ということを忘れると大変です。
私自身も、ついセッションに熱が入り過ぎて、クライアントさんの意志を無視してしまったかもしれない。と思うこともありました。その反省から、クライアントさんの話に耳を傾けることが本当に大切だということに気が付きました。
そうするうちに、私のところに来てくださるクライアントさんは、私にとっても成長するためのヒントを持ってきてくださることに気が付きました。
占う側、占われる側で、クライアントさんの中には私のことを「先生」と呼んでくださるかたもいらっしゃいますが、その立場はやはり対等だと思います。
また、講座を開くようになって、その受講生さんたちとの関りの中にも多くの学びがありました。ブログの中に出てきた、指導者としての人格の成熟度合いについては、私自身も襟を正す思いで書かせてもらいました。
私自身は、教える事の楽しみ、指導する事の苦しみ。。。のような感覚もあります。
受講生さんによっては、「私、教えてもらうことを教えてもらったら、指導はいりませ~ん!」とばかりに、自由に羽ばたいて行かれる方もいらっしゃいます。
去る者は追わず。です。新しい自分の居場所を見つけられた方に、指導者が執着しているわけにはいきませんよね(笑) そういう受講生さんたちとの関りの中で、良き指導者となるために、また知識や技術を習得していく。
(エリカさんの記事を)もう一度リブログさせていただきますが、
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★ 人を教える事と指導する事の違い (見極める能力・引き出す能力)考察
今回、「教えること」と「指導すること」の違いを私なりに考えなおし、言葉に綴ってみることができたのは、とても良い経験でした。その機会を与えてくださったエリカさんに感謝です。
ホシゴイが、思わぬ方向に転びました。本当に、人生って、人間関係って、面白いですよね。
どう転ぶかなんて、わからない。だから、指導する側、される側の関係性だって、どう転ぶかわからない!知らない間に、逆転してることだってあり得ますよね!教えてもらってるつもりが、本当は教えていた。なんてこともあるんですよ。
これからも、農業と占いを通して、いろんなことを学んでいきたいと思います。そして、私と出会ってくださったみなさんに大きな感謝をこめて!
読んでくださってありがとうございました!
以上、うめままさんの素敵なエピローグ記事のご紹介でした~☆彡
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ゴイサギの幼鳥「ホシゴイ」 ホシゴイの成鳥「ゴイサギ」
私達は「子供の頃の自分から尊敬される自分」として現在成長できているでしょうか?
…と、そんな視野も私は持ち続けたいなぁと思います。
( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡
私も若い頃から40年近く人を指導する立場にあったので、今のうめままさんの持たれている悩みや感じておられる葛藤はとても良く理解できます。
どの様な人間関係でも「自分と違う人格を持った他者と関わる」という事は、そういうものが必ずセットになって来ると言っても過言ではなく、特に「人を指導する立場」の者の方が心理的に多くの苦労を感じるのは、この世の常なのでしょう。
だってどんな人間も、最初は誰でも「教わる立場」から始まりますからね~。
教わる側が指導する立場になって、初めて「指導する側の喜びや苦労に気付く=理解が深まる」という事から見ても、人格が磨かれる=想像力がより培われるのは、やはり両方の立場が分かる「指導者の立場」を経験されている方の方が上級編の学びになるのではないでしょうか。
( ・・)~☆彡
この世はどの様なものでも"表裏一体から生まれる矛盾"を抱える世界でもあり、そこに自分も含めたそれぞれ個性の違うわがままな人間達が集うのですから、そりゃ~決して一筋縄では参りませんし、
例え「どんなに人格を磨き立派に生きていても、それを批判し文句を言う者が必ず存在する」というのがこの世の真理の一つです。(※これは慈愛と慈悲を大悟されたお釈迦様の言葉として有名で、私はそれを知った時に「最高の人格者と言われるお釈迦様でもそうなのなら、私達が悩まない訳がないのだなぁ!」と、とても気持ちが楽になれました♫笑)
今回のうめままさんの記事を読んで、私が改めて感じる事は、やはり「感性の豊かな方は、自ら気付いて行く=勝手に学んで行く」という事ですね~。
だから指導する側も、自分の魂磨きを怠らなければ(※ここ重要ポイントです!)、その時点の自分の成長に則した「自分らしさという自由から生まれる個性で指導すれば良いのだ!」と私は思います。
だって優秀な生徒なら、そこから勝手に自分の為に取捨選択して学んで行くはずですからね~。今回のうめままさんの自らの気付きと同じ様に♫
ちなみに今回のうめままさんの「教える側も、教わる側も対等」という所、私も全く同感です♫
(^^✿
私は人と関わる時には必ず二つの眼というものが有って、その一つは「相手の方の専門分野での才能と、その方の人生に対しての尊重と敬意を持つ事」は不可欠だという事。そしてもう一つは年上・年下に関わらず「人(=人格)としてお互いが対等である」という眼を常に持つという事です。
でもこういう価値観に対しては、特に年功序列を重んじて来た日本では「生意気」とか「可愛気がない」などと捉える教師や先輩も多い様です。(そういう方は、相手を自分のコントロール支配下に置きたがるコンプレックスを抱えた方達=エナジーバンパイアの方が多いです。)
そういう方達がお気付きでない事実として、その表裏一体としての"才能軽視"の弊害から、逆に日本では先生や先輩を尊敬しないという風潮も生まれているのですけれどね~。(※したとしても、上っ面だけとか自分の保身や打算からとかになる事が多いのも日本人の特徴でしょうか)
やはり「規則で作られた尊敬=頭での"せねばならぬ"で強制させられる敬意」というものは不自然なものですから、表裏一体で表面的になってしまうのは当然でしょうね~。何故なら尊敬というのは本来は「自発的に生まれるもの」というのが自然だからです。
私は職業柄、若い頃から色々な外国にも結構ご縁が有ったので、外側からも日本という国を観れる眼というのを持っている一人と自負するのですが、
個人主義=自立した人格を育てる=大人が子供を大人に育てる=親子でも、師弟でも、先輩・後輩でも、友人でも仕事関係であっても、お互いの人格を尊重するという成熟した文化と歴史を持った諸外国では、教師に対する敬意も自立しており、
特に師弟の関係には、(正直あまり日本では見られない)人間らしい深い絆という素敵なものが感じられる事が多かったですね~。だって彼らの感じている"師への尊敬"は、多くの日本人と違って「自発的=本物」だからです。
そういう文化的・教育的な事から生まれる表裏一体の側面として「多くの教師が悩む」という現象を生んでいるのが、この日本という「赤ちゃん文化」を持つ国の姿でもあるのです。(うめままさん、これも参考になりますか?笑)
日本では多くの大人が本来持たなくて良い強い罪悪感やコンプレックスを抱えている為、「大人としての自信と誇り」を持った大人が非常に少なく、私は同じ大人として残念に感じる事が多いのですが、
その「お子ちゃま文化から来る"子供天国"=成熟した人間が育たない環境」である日本では、子供を必要以上にチヤホヤする大人も多く、人によっては無意識に子供に媚びるみっともない大人の、まぁ何て多い事!と感じる事が正直多いのです。(※この「子供」という表現は、年齢に関わらず精神的なものも含まれます)
だから私はそういう場面に遭遇すると、「この人は大人としての自信とプライドは無いンかい!?」と情けなく思う事が他人事ながら多いのです。そしてこういう人は「子供に好かれても、尊敬はされないのだろうな~」という事も透けて視えて来るのです。
だって子供がその人を好きなのは、自分をチヤホヤとしてくれるからですからね。(※好きと尊敬は似て非なるものでもあります)
その様なカッコ悪い大人達は、「子供はそういう"子供に媚びる情けない大人達"を見て育って行く=大人を甘く見て尊敬しなくなる」という表裏一体がワンセットに成ってもいるという事を理解できていないのでしょうとも思います。
子供はいずれ成長します。
彼らが自分と同じ様に大人に成った時に、「自分含む大人が育てる彼らは、この先どの様な大人に成長するか?」という視野。そして、
「成長したその元子供から、自分は尊敬される様な大人で在るか?」という大きな視野で客観的にものを見通す知性と、大人だからこそ持てる"慈悲"というハートも、成熟した大人ならば持つべき大事なものではないかと私は思います。(※この世で一番人を成長させるものは、尊敬という形の愛だからです)
「才能を軽視される事も多い年功序列制度」や「本当の実力がなくても先生・先輩である者の方が上」などという"赤ちゃん文化・子供天国"という文化に甘んじ、そこに胡坐をかいていては、
いずれ成長した子供達の方が(自分より年齢が若くても)、先に自分より大人に成ってしまうというという事も起こり得るという現実を、私達大人はキチンと人生の視野に入れる必要があると私は思います。そして良く混同されますが、私は「大人のピュアと子供のピュアは違う」という事を、多くの大人は知るべきだと思います。
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それを混同してしまう大人は、自分にも他人にも「純粋であれば何でも許される」と勘違いする事から生まれる弊害に気付けなくなりますし、そうしてお互いの人格の成長が阻まれれば、本当の意味での「大人としての自分に自信を持つ」という事ができなくなるという表裏一体に繋がって行く事になるからです。
…という事で最後になりますが、15年以上前に書かせて頂いた私の自著からの引用を改めてご紹介させて頂こうと思います♫
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「人生の奥行き」大園エリカ 著 より
人間は皆、生まれた時はピュアだ。だからピュアな部分を持っていない人間はいない。
だが子供のピュアと大人のピュアは違う。
周りに守られている子供はありのまま、生まれたままであれば良い。だが大人は違う。
もし大人が生まれたままだとしたら、それはただのわがままな、大人の顔をした子供。
大人は人生で色々なものを見せられるのだ。その中には醜いものや汚いものも必ずある。
何故なら自分も含めてどの人間も人間である以上、必ず両面を持っているからだ。
きれいなだけも汚いだけも有り得ないのが人間。
その中でピュアを保ち続けるには、物事におもねらず流されない強さと賢い目が必要だ。
だから大人のピュアには奥行きがあるのだ。
ちなみに私に取って「年齢と顔が大人でも、中身が未成熟な精神的幼児」は、他人事ながら正直見ていてとても恥ずかしく感じてしまうので、そういう大人からは"人間的な魅力=人格・霊格への尊敬"は感じられないというのが正直な所です。
(^^;;
魂が成熟した大人はそういうものを見抜いてしまう眼を持つので、そういう感覚を持たれた方かどうかというのも私に取っては"人間としての成熟度のバロメーター"に成っています。
人生で素敵な大人=霊格の高い方に出会うという経験を持った人間というものは、未成熟な魂の持ち主である「大人の顔をした子供」に惹かれるという事はないのです~☆彡
何故なら、人間は「後戻りする」という事ができない様に生まれついているからなのです。
(^^✿
このコラムの執筆専門家
- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年