- 橘 凛保
- 社団法人橘流恕学アカデミー 理事長 講師
- 東京都
- マナー講師
対象:婚活
- 舘 智彦
- (しあわせ婚ナビゲーター)
すいせん秘話とカンナの関わり
東日本大震災のこと
2011年3月11日、私はお能のお稽古中でした。
広い和室はそれほどの揺れを感じませんでした。
夜は渋谷で司会の仕事。移動のために外に出る。
ヘルメットをかぶる人も多く大勢の人なみに驚く。
目黒から渋谷、普段なら5分のところ、
電車が止まりバスで2時間半かかり到着。
東京はパニックになることなく整然とした人たちで溢れていた。携帯はつながらない。
開催終了予定の9時まではホールにてお客様対応のため待機。
お店はどこもいっぱい。
何が起きているのよくかわからないがとりあえず夕食。
お店に入れたのが幸いして、そのまま夜を明かすことになる。
翌日家に帰りTVの映像を見て愕然とする・・・。
津波の引いた被災地の光景が1945年のヒロシマと重な流。
何度も繰り返される津波の映像。避難所の様子も映し出される。
「真っ赤なカンナの話を伝えなくちゃ」
「必ず乗り越えられる!を伝えなくちゃ」
でも今は食べるものも着るものもない、そんな時にそんなことは言えない・・・。
寄付金をすることしかできないでいた。
教え子たちも学校を通して文房具を送った。
そうこうしているうちに、東京の避難所の映像が映り、
「温かいものを口にしていない。」と言う声に気づく。
茶道の子どもたちに「お茶を点てに行こう!」と呼びかけた。
ちょうど桜の咲く中の茶会となり、たくさんの被災者の皆さんが「ほっとしたひと時だった」と言ってくださった。
そこで一番にお茶を飲みに来てくれた明日香ちゃんがカンナを咲かせたいと言ってくれた。
ここにも壮絶なエピソードがある。
別の機会に知っていただきたいエピソードです。
明日香ちゃんとは今も繋がっている。
隠れ被災地のことを知り、千葉県の香取にも応援に行く。
そこでもカンナを植えた。
しかし、あの光景の現地に「カンナを咲かせませんか?」はまだ言えない気がして一歩を踏み出せないでいた。
そんなある日、電車の中で家族からのメール。
「すいせんを美智子皇后陛下に差し出す避難所の人」のニュースが流れたらしい。
「そう、すいせんが咲いてくれたのね。ちょうど1ヶ月ね。カンナと同じね。よかった。よかった。」
そう言って仕事に行きすっかりそのことを忘れてしまった。
それから数日後、ニュース番組で今度は直接その映像を見ることがあった。様々な思いがそこに集結して、
「そうだ!!この水仙助けなくちゃ!!」そう思った。
TV局に電話して、場所と持ち主を確認する。
毎年の広島カンナ・プロジェクトの数日前のこと、震災からもう直ぐ2ヶ月のころだった。
一人プロジェクトのカンナ・プロジェクト。
だが決して一人ぼっちではない。
いく先々に応援してくださる方々がたくさんいてくださる。
1年中をともにはできなくても、心を寄せてくださるカンナ大使さんたちがいてくださる。
福島にも長い間カンナ大使をしてくださる星さんがいる。
「星さん!水仙が咲いたの!助けに行きたいの!カンナのように忘れられないように助けたいの!!」
「よっしゃ!いくべ!」
一応カンナの球根も持って、広島行きの2日前、スーツケースを引き郡山で待ち合わせ。一路、星さんの車で仙台蒲生に向かう。道の右と左では色が違う。右側はどこもかしこも土色の世界。
草の緑は見えない。そんな中よく水仙は咲いてくれたと思った。途中のホームセンターで布団がたりないと聞いたので布団・植木鉢・土を調達。
「もしカンナを植えたいと言ってくださる方がいたら差し上げよう!」星さんと意見は一致。
さて蒲生は重機が入って砂埃で視界が閉ざされるほど、道などはもはやなく、瓦礫だらけ。地図は全く用をなさない。
「やはり、持ち主の佐藤さんをまず探そう!」
TV局で教えていただいた「宮城野の体育館」を探す。
学校だと思っていた。宮城野に鶴巻小学校を見つける。
「この辺りに宮城野体育館はありますか?」
「それは大きなアリーナのことでしょう。」
丁寧に教えてくださった。
「今、蒲生に行ってきました。全滅でした。こちらは無事でよかったですね」
「いいえ、ここにはあの蒲生から通っている子供達がたくさんいます。親を流された子達もいます・・・」
「そうだったのですか・・・・・実は、私は、そういう子どもたちに真っ赤なカンナの球根を差し上げたいと震災以来ずっと考えています。もし、よろしければカンナの球根を差し上げたいのですが・・・・」
「本当ですか?そういう話を待っていたのです。物資はだいぶ行き渡りました。今は心の問題があります。そういう話こそが今必要なのです。」
「この真っ赤なカンナは広島の原爆からたったの1ヶ月で爆心地820mに咲いてくれたのです。原爆にも負けないで再び花を咲かせた真っ赤なカンナは、どれだけ生きる希望をくれたかと私は思うのです。でも、そのカンナは早く咲きすぎたが故に捨てられ、忘れられて・・・。そのカンナを子供達とバトンしています。今日は広島の子供達が育てた球根を持ってきています。」
「ぜひ、下さい!」
意外な展開で鶴巻小学校で植えることになりました。
教頭先生は、すぐに中野小・栄小にもバトンしてく下いました。
これに勇気をいただいて、石巻の避難所にもバトンしました。
その時は広島行きが2日後を控え、泊まるところもそのあたりでは見つからず、山形周りで広島に向かうことになりました。
赤湯温泉の知り合いの宿を訪ねそこでもカンナが所望されました。
「世話になるばかりの避難者が、何かできることを探していました。カンナの世話ができることは嬉しい」
そう言ってださいました。
そのまま新幹線を乗り継いで広島の子供達にこの話をして、カンナ・プロジェクト被災地プロジェクトが子どもたちの志として始まり、石巻・大船渡・福島にも植えることになるのです。
石巻には65校の小中学校にバトンが繋がったのです。そのはじめの一歩が、この道に迷い飛び込んだ鶴巻小の教頭先生との出遭いだったのです。
さてさて、水仙です。
震災の津波から1ヶ月で咲いてくれた水仙。
原爆の時のカンナと同じです。
カンナは忘れられて、それを伝えるのに2011年の時点で7年の年月を有していました。
伝えても伝えても広島でさえも「初めて聞きました」ばかりでした。伝えても伝えても・・・でした。
でも忘れてはならない出来事です。
いろいろな意味を投げかけるカンナの咲いた事実です。
誰も伝えないから頑張って知らせてきました。
水仙も同じ目に会わせたくないと思いました。
何としても助けたい。
宮城野アリーナを訪ね佐藤さんを探しました。
ちょうどいらしたので、カンナの話をして、「この佐藤さんの水仙を助けに行きましょう!」と伝えました。
佐藤さんはすぐに「行きましょう!助けてください!」
そうおっしゃいました。
星さんと佐藤さんと三人で佐藤さんの家に行き、すでに花の終わった水仙を掘り起こし70株〜80株ほどだったでしょうか、助け出しました。(写真 橘)
この水仙は佐藤さんに手渡しました。(2011年5月13日蒲生)
佐藤さんが、「水仙もらって下さい!そしてカンナをいただけないでしょうか?」そう言ってくださいました。
水仙とカンナ交換バトンして、その水仙は星さん、私、そして、広島の平良小・大州小・安田小・毘沙門台小につなぎました。
写真は毘沙門台小学校
カンナは赤・夏・火・人災。
水仙は白・冬・水・天災。
全く正反対の、しかし、生きる力をくれた花。
半年後、佐藤さんは借り上げ住宅の仮設住居に移ることができました。1000カンナスマイルを届けた2011年12月4日の佐藤さんです。
その後、佐藤さんを東京にお呼びして、津波の話、水仙の話など講演をしていただきました。
チェルノブイリの研究の先生にも講演していただきました。
福島や仙台あたりでも、放射能の危険を感じないではいられませんでした。遠くからも講演に参加される方が多かったです。
しかし、残念なことに佐藤さんはその後ガンを患いました。
ご主人様もでした。
抗がん剤があったようでだいぶ回復されました。
そかし2016年癌で亡くなりました・・・・・。
2017年10月、TV局から佐藤さんのことを取材している中で私を見つけたとお電話がありました。
佐藤さんのご親戚も見つからず困っているとのことでした。
私の知る情報をすべて提供し、さらに調べておしらせしました。
数回にわたる取材を受けました。
すると、今度はカンナについて取材したいとお話をいただきました。
11月14日収録したいとお申し出をいただきました。
本日夜9時〜BSNHKアナザーストーリーズ「天皇いのちの旅 後編〜象徴への模索〜」の「視点3」というテーマの中「天皇皇后両陛下と花に託したメッセージについて」
にて放映されるそうです