- 大園 エリカ
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
- 東京都
- クラシックバレエ教師・振付家
最近の私は、「正々堂々と我慢しない」というのが自分の人生のテーマになっています。(笑)
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この「我慢をしない」というのは、「自分のやりたい事」に対しても、「自分のやりたくない事」に対しても、常に自分の心に正直になるという事です。
それは決して「人からどう思われるか?」というのを優先しないという事であり、又それは「自分以外に自分をコントロールする人間を、自分の中心に置かない」という事でもあります。
( ・・) ~ ☆彡
昔から私は「我慢」というものに美徳を感じない人間なのですが、それは何故かと言うと、私は自分の人生で出会った沢山の方達を通して、「我慢している人間は、底意地が悪くなる(=バランスの法則)」という一つの真理を観て来たからです。
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多くの方が「良い人」と感じる人とは、実は「(自分含む)他者の為に、我慢をしている人」であったりする事が大半だったりします。
人間というのはエゴで盲目な生き物なので、単純に「自分(他者)を優先し、大切にしてくれる」と感じる人間に対して「あの人は、良い人である」という判断をしがちなのですが、他者の為に我慢をする側も、自分の為に他者に我慢してもらう側も、案外見落としている事があるのです。
それは、そういう「我慢をしている人」というのは、一方ではそれが「自分を犠牲にしている人=自分を大事にしていない人」でもあるという視野です。
「"他人に取って良い人"というのは、一体何なのでしょう?」と、私は昔から時々考えるのですが、私自身は「他者の為の親切心と思い込み、自分を犠牲にして人に合わせる人」の傍にいると、非常に窮屈に感じますし、又とてもつまらなく感じ疲れてしまって、友人になりたいとは思わないのです。
もし相手が自分を犠牲にする「我慢」という行為ではなく、「相手に与える事で喜びを感じる」という奉仕からの行為であれば、受け手側はそんな風に感じる事はなく、共感や感謝を感じる事でしょう。
だって相手に喜びが有れば、それはお互いハートで自然に感じられるものですからね~。
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でもどうも世の中には、(与える側も与えられる側も)この「犠牲」と「奉仕」の見分けがつかない人間の方が多い様に私は感じます。
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本来我儘に生まれついている私達人間ですので、本音は誰もが「我慢する」という事は本当は大嫌いなはずなのですが、では何故多くの人間は「我慢」をするのでしょうか?
それはシビアに突き詰めると、「自分に欲しいものがある時」以外無いでしょう。そしてその欲しいものの正体が何かと言うと、それは「相手に嫌われたくない=良い人に思われたい」という保身の心理が働く時です。
「自分を犠牲にする」という行為の中には、「世間からの承認欲」や「金銭を得るビジネス」が目的であったり、「自分の家族や仲間を守る為(※でもこれも突き詰めると、結局自分の為だったりする事が多いのですけれどね!)」などというものもあると思いますが、
結局それも喜びを伴わない「犠牲の行為」であれば、犠牲になった側は後になって「お前の為に、私はこれだけしてやったのに!」と相手に見返りを求める様になり、してもらった側はその重たい波動を感じ、罪悪感を感じさせられたりして、お互いががんじがらめに縛られるというのがバランスなのです。
つまり自分を犠牲にした場合、最後は犠牲を払った側がそれに見合った相手からの報酬(愛されたい等、精神的なものも含む)を求め、それが得られるまでそこに固執する事になってしまうというのがバランスなので、それがお互いの諍いの種になったりするのです。(こういう構図は、家族間でも大変良く見られる光景です)
私は以前のコラムでも同じ事を何度か書かせて頂いた事がありますが、「犠牲」という行為は、相手を重たくがんじがらめにする行為でもあるのです。
そりゃそうですよね~。相手が「自分の為に"犠牲になってくれた"」としたら、その感謝は「悲しい思い」や「申し訳ないという罪悪感」を一緒に伴うのですもの!
…と、ここまで力説したのは、つまり「自分や自分が愛する者達がそんな思いになるものを、あなたは相手に贈りたいと思いますか?」という事を、それぞれ各自が自分と相手の幸せの為に、考える事が必要だと私は感じるからなのです。
ちなみに私は、そんなものは人様に差し上げたくありませんし、又誰かが自分の為に犠牲になるという様な事も望みません。だってどちらに取ってもそんな人間関係は決してハッピーではないですもの!
「犠牲」と「奉仕」は似て非なるものなので、表面上は一見同じ行為に見えたりするのですが、
私はもし人様に差し上げるのならば「犠牲」ではなく、「奉仕」という「自分の自己責任から能動的に動く、喜びを伴った自由な行為」という心からの贈り物がしたいと思います。そしてそこには「相手の反応は、相手に委ねる=相手からの見返りは一切求めない」というものが勿論セットです。
だって自分がしたくて差し上げた時点で、すでに楽しい喜びを宇宙から頂けているのですから、相手からの反応がどうあろうと、その結果に固執する必要は無いからです。
この様に、自分にも相手にも縛るものがない"自由"を与えられる「奉仕」という行為が、お互い理想的な人間関係を築く秘訣ではないかと私は思っています。(但しこれは、どちらかだけがという関係では決して築けない人間関係でもありますので、お互いが成熟した者同士でないと難しいですが…)
(*^^*) ~ ♡
そして反対に自分の感覚が「したくない」と感じた時には、自分の責任と判断で「しない」という勇気ある選択ができる自由を持つ事も、非常に大事な事であると私は思っています。
( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡
花は「奉仕」で咲くから美しく、人を癒すと言われていますね~♡
人から見られる場所であっても、そうでなくても、精一杯自分の命を輝かせて誠実に健気に咲いている花々は、私達の教師なのかもしれないですね~。
( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡
人間という動物も「自由でいる事」が一番幸せなのです。
ですので自分が自由でいたかったら、相手にも自由を与える事しかありません。
それは「自分の与えたものが、自分の受け取るもの」だからですね!
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人間は「自由を与えてくれる」と感じる人の傍に行きたくなるというのは、そういう事ですね~。
自分が犠牲を払う事で自分を「良い人間」と思い込み、それに見合った見返りを求める人間が敬遠されるというカラクリを、今回の説明でご理解頂けたでしょうか?
自分を「良い人間」と思い込んでいる人の悲劇とは、「他者の為に犠牲を払い努力している私を、相手はもっと尊重すべきだ!」という怒りで、自覚なく自分と相手を縛ってしまっているという事なのです。
( ・・) ~ ★彡
自己責任と自由というのは表裏一体です。
ですので本物の奉仕体質の方というのは、どんなものにも感謝を感じられる自由人なので、自分の感情に呑まれる事がなく、いつも冷静でご機嫌さんであり、故に愚痴や不満や言い訳を持ちませんので、それがバロメーターです。
人間は自由で幸せならば自然に感謝を感じられるので、人と競争したり、他者に嫉妬を感じたりしませんから、人に意地悪をしたいとは思わないものですし、自分が満たされているから他人の幸せも自分の事の様に喜べるのです。
自分を犠牲にする人の多くは、「自分は他者の為に、こんなに我慢している良い人間」と思い込んでいる為、相手から自分の思った様な見返りや報酬(精神的なもの含む)が返らないと不満を感じている事が多いのですが、
「人の目を気にして、良い人を演じなければならない」故に、中に怒りを溜め込んでいる事が多いので、いつもどこか不機嫌で怒りっぽいか、鬱っぽくなり精神が安定していません。
そしてそういう方達は、絶えず心の中で他者をチェックし批判・批評していますので、私にはそれがバロメーターでしょうか。
ちなみに私がこの世の中で一番質が悪いと感じ、もしかしたら一番怖ろしいのではないかと感じる人間は「人間である限りは誰もが持つ"自分の中に在る悪や弱さ"を自覚できずに、自分を良い人間と思い込んでいる人」です。
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このコラムの執筆専門家
- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年