仏道、禅の世界における「マスターと弟子」の関係は、「先生と生徒」ではありません。
マスターが弟子に「教える(何かを与える)」とか、弟子がマスターから「教わる(何かを受け取る)」ではないんです。
と、言うのは、前回のブログで書いた三学を通してマスターが目指しているのは、弟子の「慧」の発露です。
「慧」ってのは、「気づき」のことですから、それは「新しい知識」ではありません。
「目からウロコ」という慣用句が指すように、慧(気づき)は「新しい知識が与えられる」ことで完成されるものではなく、「特定の観念が崩壊することによって露わになっていくもの」です。
「師の教えを私の中に取り入れる」のではなく、「師の言葉・体現によって、私の観念が崩れていく」、「私」が崩れた分だけ「慧」が露わになる、そういう関係なんです。
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