京都:慈照寺 銀閣  1 - 生涯学習 - 専門家プロファイル

中舎 重之
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稲垣 史朗
稲垣 史朗
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閲覧数順 2024年04月19日更新

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京都:慈照寺 銀閣  1

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              じ  しょう じ  ぎん  かく             

        慈  照  寺  銀  閣






           京都市左京区銀閣寺町にあり、慈照寺というのが、       

     正式の名前です。 足利三代将軍の義満の北山金閣と共       

     に銀閣寺の名前で知られています。


           文明15年(1483)、 足利八代将軍の義政が別荘       

     として造ったものです。義政の没後、遺命により慈照寺       

     と号し、相国寺に属せしめた寺です。 昔は十二楼にも    

     およぶ建物があった云われています。それが、天文年間    

     の永い永い兵乱により焼失して、東求堂(銀閣寺)のみ    

     が残ったのです。













        足利八代将軍 義政は、三代将軍 義満の孫です。     

   こう書くと変に思うでしょう。まさにその疑問はもっとも   

   なのです。三代の孫なら、五代になるはずです。   

   それが八代であると云うことは、五代から八代の間に三代も   

   脇から家督を受け継いだ人が、存在していると言うことです。     

   ここで簡単に足利家の系図を記します。


      ①          ②    ③       ④       ⑤     

   足利尊氏ー義詮ー義満ーー義持ーー義量
 

                                  ⑥       ⑦                           

                   ー義教ーー義勝

                                           ⑧     ⑨                                   

                         ー義政ー義尚

       家系が親から子へ、子から孫へと直系的に相続されている   

  時は、その家は安泰です。兄の後を弟が、その後を甥が、   

  従兄弟が、と云った様に家督が横に流れたり、斜めに飛んだ   

  りするのは、決して家内安全とは言えません。この様な場合   

  は同族の争い、一族の紛争があると思っても良いでしょう。


        足利家も此の例に洩れる事なく、御家は安泰ではなかった        

  のです。その中で、義政は八代将軍の座に就いたのです。     

  彼が理想とした一人の巨星、それは祖父の三代の義満でした。     

    義満は、南北朝の合一を成し遂げた傑物です。それと中国   

  の明と交流し、天竜寺船貿易にて巨万の冨を築きました。     

  その冨により、北山第に山荘として建てたのが金閣の始まり   

  なのです。       

   義満は、足利歴代将軍の中でも初代の尊氏と並び賞される   

  程の人物でした。


      義政は、それに憧れ、それに学び、それを真似しようとした       

  のです。  また、内大臣 日野勝光の姪 冨子を室に迎えて、   

  「京の文化と教養」を身に備えようとしました。


    足利氏の本国は下野国(今の栃木県付近)であり、初代の   

  尊氏以後は、京都に定住しました。   

  とは云え、やはり東国での永い風習は抜けず、事ある毎に   

  殿上人から、田舎者よ、成り上がり者よと蔑まれていました。       

    それ故に、公卿の女を得ることで、公家の文化を身に着け   

  ようとしたのです。


        しかし、富子との間は、うまくゆかず争いが絶えなかった。     

  くわうるに、応仁文明の内乱が永く続きました。   

  ために京の街並みは殆ど焼け野原となり、人民は疲弊し、   

  諸国からの貢納は途絶えがちでした。         

    義政は、こうした時代と家庭とに満たされぬ心を、浄土寺   

  に銀閣を建立する事により、気を紛らそうとしたと言われて   

  います。


        彼の運命は、実に暗かったと云えるし、家庭的にも恵まれ   

  ませんでした。それでも、彼は足利幕府の八代将軍であり、   

  文化人たらんと欲して努力をし、文化人たることを自負した   

  男です。       

    彼の周りには、各種の芸能や技術を持つ者が参集し、それ   

  ぞれが妍を競っていました。今で云う文化人のグループが、        

  彼のまわりに出来ていたのです。       

    そうした環境と、彼が文化人たらんと努力し修養をつんだ   

  ことにより、義政は文化人として完成の域に達していったと   

  思われます。    

    それは、現存する銀閣により、良く分かると思います。


        さて、私達もルートにのって慈照寺銀閣を訪問しましょう。       

  慈照寺という門札を見て門を潜ります。 門を入って右手に   

  折れる一帯には、垣根があります。此の垣根が、実に美しい。       

    第一段が椿や樫等の青葉、その根元の第二段には割った   

  枯れ竹の垣根、その下の第三段が苔むした積み石の壇です。     

  左右両脇ともに横に真っ直ぐに通った、三段の垣根の道。    

    黙々として来者を迎え、そして見送る生垣。おそらく殆ど   

  の人々が、気づかぬまま通り過ぎたてあろう 此の生け垣。

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