「山を越える修行僧」
仏道の修行をする師と弟子が、
二人で旅をしていました。
その旅の途中で、川に差し掛かったところ、
若い女性が、川の前で立ち往生していました。
着物の裾をあげ、歩いて川を渡ろうとしたのですが、
流れが急で、渡れなかったのです。
それを見た弟子は、
若い女性に心を惑わされてはならぬと
一人で川を渡ろうとしましたが、
師は、黙って歩み寄ると、
その肌も露わな女性を肩に担ぎ、
川を渡しました。
女性の礼の言葉を背に、
二人の修行僧は、
その先にある山道を登り始めました。
その道を登り終え、坂道を下り、
その山を越えたところで、
思い余った弟子が、耐え切れず、
師に言いました。
あれは、許されぬことではないでしょうか。
若い女性を肩に担ぐなど、
修行の身で、
してはならぬことではないでしょうか。
それを聞いて、
師は微笑みながら答えました。
おや、お前は、
あの山を越えても、まだ、
あの女性を担いでいたか。
我々の心は、
いくつの山を超えれば、
担いでいるものに、気がつくのでしょうか。
(※「自分であり続けるために」 田坂広志 著 より)
寒そ~な早朝の駅。(^^;
今の時期は、日の出の時間がとても遅いですねぇ・・・。
今回のメッセージも、これ又とても深いですねぇ・・・。
自分が他人の非を責める時の心境とは、こういうものなのでしょう。
つまり、他人の行動に拘り責めてしまうのは、自分の煩悩を他人に投影しているだけだという真理ですね。
私達は日頃気付かずに、自分の抱える内面を他人の中に見て、他人のせいにしてしまう癖を持っているのです。
(; ̄O ̄)
拘っていないから、できる師の(他人の為の)行為。
拘っているから、できない弟子の(自分の為の)行為。
これは、逆に
拘っていないから、しない行為。(虚偽)
拘っているから、してしまう行為。(強欲・執着)
という事も、あるのではないでしょうか?
どちらにしても大事なのは、果たしてそのどちらが真実の「愛」の在る行為になっているのか?という事ですね~。(^^;
そして「修行=努力」は、一体何の為にするのか?という、これ又深い所も洞察できる、深いメッセージになっているのではないでしょうか?
☆_(_☆_)_☆
このコラムの執筆専門家
- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年