それでは今回は、皆様にも大変馴染みの深いフィギュアスケートを通して、私が感じる芸術の世界をご案内致しましょう。
私は以前、新しく知り合った方達数人に、こういう質問をされた事がありました。
それは「浅田真央選手とキム・ヨナ選手の何が違うの?」という質問でした。
そしてその中の年配の女性の方が、「私には、技術的には二人はそんなに違いがある様には見えないし、私は浅田選手が好きだから、何故いつもキム・ヨナ選手がああして真央ちゃんより審査員の評価が高いのか分からない」と仰られたのです。
フムフム ♫
私はそれをお聞きして、「これは日本人によくありがちな見方が多分に入っておられるなぁ」という事を、その質問から感じました。
つまりご自分の主観である、「性格が良いから好き」「頑張っているから応援したくなる」「性格が悪そうだから嫌い」「生意気そうで好きになれない」等々の私情があると、観えて来ないものがあるのですね。
芸術家がものを観る時の眼というものは、その様な私情を挟んだものの観方ではなく、単にシビアに
「美しいか、美しくないか」
という、私情を超えた眼でものを捉えて観る事なのです。
(※ちなみにこういう眼を "プロフェッショナルの眼" とも申します)
当時キム・ヨナ選手には、調子があまり良くない時にも、破格な高い点数が付けられたりした事もあるので、世間では穿った見方で色々と憶測されたりもありましたが、
それを差し引いても、何故キム・ヨナ選手の演技が、ああしてその道の専門家の審査員に愛され、いつも高い評価をもらえたのか?というのは、その彼女の洗練された演技の "美しさ" にあったと私は思います。
「お子ちゃま文化」の日本人は情に厚い所があるせいか、大人から子供まで、どこか「頑張っているから認めて欲しい」という甘えた評価を欲しがる傾向にある様に見受けられるのですが、
「"頑張り" と "才能" とは又別のものである」という "大人"なものの観方が、芸術を理解する眼になるのです。
つまり「美しいものは美しい」という、" 私情でものを見ない "というクールな眼ですね。
今、思い出したのですが、昔、自分が若かりし頃に、或る世界的に有名なバレリーナの方のドキュメンタリー番組がありました。
その中で、そのバレリーナに縁のある一人の舞踊家の方がインタビューを受けられていて、その時にその方の語られた思い出話しの中に、とても私の心の中に深く刻まれた言葉がありました。それは・・・
「芸術は美しいものである。 芸術には "可愛い" は無い」
「だから汚くても "美しい" 踊りを踊れる様になりなさい」
という言葉でした。
私には、この「汚くても美しい」という表現の中に、全てを内包する "芸術" というものの深遠さと奥行きを感じ、とても感銘を受けたのを思い出します。
それは草木や花、或いは動物や人間に例えて見ても同じですが、成長から枯れて行くまで、或いは老いて朽ちて行くまでの、"醜" も含めた全ての中に "美を観る" というものなのだと思います。
全ては自然の営みの中にあり、全て自然の中に全体としてあるもの = "美" と捉える、成熟したものの観方です。
こういう事も思い出します。
私がバレエ学校に通っていた時の事ですが、皆がバレリーナを夢見て毎日レッスンに励む中、ある生徒が履いていた汚れたバレエシューズを見て「汚れの分だけ努力して頑張ったんだね。美しいね」と言われた教師の方がおりました。
芸術的にものを観るとは、この様に「汚い中にも(その裏に有る) "美" に気づく感性」なのではないかと思います。
そしてこういう "眼" は、人生経験を積んだ大人でなければ持てないものでしょう。
その経験が豊富であればある程、短絡的にものを見る事から、段々多角的にものを捉えてものを観るという感覚を持つ様になるので、
人間も中身が成熟するほどに、単に「好き・嫌い」「良い・悪い」等ではないものの観方、様々な "醜を含めた美" に気づける繊細な眼を持つ様になります。
自分を見る時にも、他人を見る時にも、感情的に観ない "ニュートラルな眼" を持つ事。
物事を "ありのまま" に観れる眼。
これが芸術を理解できる能力 = "感性の眼" なのだと、私は理解しています。☆彡
アルフレッド シスレー(1839ー1899)
このコラムの執筆専門家
- 大園 エリカ
- (東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
- 舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
natural & elegance
長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年