初心者の心こそ開かれている! - コラム - 専門家プロファイル

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閲覧数順 2024年04月19日更新

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初心者の心こそ開かれている!

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徒然日記
「知識と智慧は違う」ということを何度かお伝えしておりますが、仏教で言う「智慧」には、三段階あります。
「聞慧」…教えを聴くこと「思慧」…教えを理解すること「修慧」…教えを実践すること


この三つの段階を経て初めて智慧を得たと言えるわけです。
一番最初は「耳を傾けること」から始めていくのですね。
ところが、素直に耳を傾けるというのは意外と難しいものなのです。
何故なら、自分の思考が邪魔をするからです。


「仏教を聞けば幸せになるなんてそんなわけがない!」
「自分が無いなんて意味が分からない!」
「洗脳されないように気を付けないと!」



と、今までの自分の価値観や常識があるが故に、真理の教えに対しても疑いの心というものが湧き上がってくるものなのです。
素直に聴き入れるというのは、確かに危ういこともあります。
騙される、洗脳されるという可能性もあるからです。


しかし、もし自分が何かの教えを本気で学んでいこうと思ったら、あらゆる先入観というものを全て捨て去る必要があるのです。
思い込みというものは、私達の障害物でもあるのですが、真剣に学んでいくことによって、その障害物が流れていきます。
まず第一に、一大事を一大事とも思わなければ学ぶことも出来ませんが、学ぼうと決めたのなら、心を空にして聴くことが大切なのですよね。


色々なことを知っている知識人ほど頑なです。
初心者の方が、真綿が水を吸い込むように吸収していくものなのです。
学びが長いから理解が早いということは無く、どれだけ自分の中の障害物が少ないかによって成長度合いが変わってきます。


そして、触れ続け、聴き続けることによって、理解が深まっていきます。
これが「思慧」になるわけで、「仏法は聴聞に極まる」と言うように、教えを何度も聞いて腑に落としていくことが必要なのです。


ただし、聴いただけで終わってしまっては知識で終わってしまいます。
知識を智慧にするためには、意識しなくても行動出来るように習慣付けていく必要があるのです。
これが最後の「修慧」になってきます。


感動するような良い言葉を集めるのではなく、聴いたことをどれだけ自分が出来るのか…ということの方が遥かに大切です。
「仏教は実践の学問」と言われるのは、実践出来てこそ意味があるものだからなのですよね。
学んだことを日常生活に反映出来るようになった時、初めて教えが役に立ったと言えます。


自分の中にいる専門家は、エゴの強い狡猾な存在なのです。
自分の必要性をアピールし、智慧から我が身だけを守ろうとします。
専門家は自分の身を守るためだけに疑念の心を生み出し、愚かな王に正しい道を歩ませないように誘導するのです。


深遠の教理を疑う前に、まずは自分自身が信じているものを疑ってみて下さい。
教えが分からないからと教えを疑うのではなく、自分の「聴く能力」というものを疑ってみるのです。


「本当に自分は相手の言葉を聴く力があるのだろうか?」


もし聴く力が足りていないのであれば、分からないところは自らに質問しておくのです。
そのうち、パッと答えが返ってくることもあります。
事象として目の前に現れてくることもあります。


師から教えを聴き、自らにも聴き、教えを沁み込ませていってみて下さい。
やがて次のように思うことがあるかもしれません。
「この教えは疑う余地の無い真理だ…。」と。


盲信するのではなく、しっかりと理性を保ったまま理解を深めていくのです。
それが仏教の学びであり、危険の無い幸せへの道です。
過度な期待をせずに、じっくりと時間をかけて実践し続けること。
地に足を付けて一歩ずつ歩んでいくことが何よりも大切なのだと思います。
素直に耳を傾けられる自分でありたいものですね(^_-)-☆



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