私がフェデラー、ナダルを好きな理由
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現在、オーストラリアのメルボルンで全豪オープンテニスが厳戒態勢のなか開催されています。私はテニスが大好きで、4大大会を観るのをとても楽しみにしています。(全英、全仏、全豪は現地でも観てきました)
いちばん好きな選手はフェデラーですが、今回は残念ながら欠場。で、次に好きなナダル一押しで応援していたのですが、昨晩惜しくもフルセットの末、敗退
大会前に背中の不安を口にしていたのですが、試合後半、見たことのないスマッシュミスをするなどミスが増え、痛みが出ているのではと心配でしたが、たとえそうだとしても彼は痛そうにしないし、負けた後も言い訳しないところを本当に尊敬しています。
実際、試合後の記者会見のコメントのなんとすばらしいこと!
「僕はどんな時でも、正しい態度で全力を尽くす。それが苦しい状況であっても。試合を通してポジティブでいるように努めている。今日は足りないものがあっただけ。僕のキャリアのうちの一部分で、受け入れて前に進む。それが人生」
「チチパスは第3セットからすごくプレーがよくなった。僕はエラーをしてしまった。ただ十分でなかったというだけ。家に帰り、上達するために練習する」
「ここに来るまでのコンディションはよかったと思う。今日は十分ではなかった。それがスポーツ。1人が勝って、1人が負ける。今日は僕が負けた。できることは次にもっとうまくやれるように努力するだけ。今日はチチパスを祝福する」
常に現状でのベストを尽くし、そのためにしっかり準備する。そして、その結果をありのまま受け入れる。うまくいかなかったことを悔いるのではなく、次に備えるために活かす。今できることに集中するというのは、メンタルヘルスの基本でもあり、ナダルの姿勢はまさにお手本。
以下の発言からも、過去や未来ではなく、今の充実を大事にしていることがわかります。
「グランドスラムで優勝した選手としてキャリアを終えることができれば素晴らしいけど、それ自体が僕の未来の幸せではない。だから深追いはしない」
そして、何より私が彼を好きなのは、
「僕らにとって、社会のポジティブな見本になることは絶対に必要なことだと個人的に考えている。世界や若い人たちに正しいメッセージをおくることが大切」
これ、これなんです。トップに立つ人としての自覚。技術だけ抜きんでていればいいというのではなく、人としても見本となるように意識している、だから彼はプレー中にいらだっても、決してラケットを破壊したりしません。これはフェデラーも同じ。
私がジョコビッチを嫌うのは、彼がときどきかんしゃくを起こして、ラケットや椅子などに激しく当たり破壊行為(私に言わせれば暴力)をくり返すから。私はテニスが好きだから、ラケットを自ら壊す行為を見るととても悲しくなるし、大好きなテニスを観ながら恐怖を感じる暴力行為を見せられることには憤りも感じます。
フェデラーは若いときは感情のコントロールができなかったけれど、訓練したと言っていました。それで今の柔和なキャラクターになったのです。つまり、感情のコントロールは練習でできるようになるということ。私もそうだと思ってカウンセリングやセミナーをおこなっています。
私は、ある分野のトップに立つということはそれだけの社会的責任が伴うということで、そのための自覚と自己鍛錬が必要だと思うのですが、ジョコビッチや今話題の森さんにはそういう意識がないようで、だから私は彼らが嫌いで、ナダルやフェデラーが好きなんだなあと、ナダルのコメントから再認識しました。みなさんはいかがでしょう。