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私のメモリアル・イヤー
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人生の最初の分かれ道は中学卒業の年だった。
1961(昭和36)年3月、徳山(周南)市立太華中学校を卒業、野球部監督岡村先生の勧めで
進学校に行かず山口県立下松工業高校に進学した。
下松工業はしつけが厳しく礼の仕方は徹底的に教えられた。
高校野球の応援歌や校歌の練習も厳しかった。
その年は開校40周年だった。
事業の一環として下工40年史が発行された。
発行責任者は翌年徳山高校に転任された国語の青木先生。
この文集の中で記憶に残ったのは「海だ海だ」。
登場人物は後に京都大学経済学部教授になられた佐波宣平さんだった。
交通論、保険学の権威だった。
私は大学進学に関して先生に相談の手紙を送ったがご返事を頂いた。
先生は恩師と共に下松工業を中途退学、大阪の中学校に転校された。
先生はこのことを悔いておられ、卒業して大学を目指すようアドバイス頂いた。
先生は胃がんで苦しんでおられたが最終講義は全国紙で紹介された。
次は社団法人神奈川県経営管理センターである。
2003年10月、創立40年を迎え八橋理事長が記念エッセイ集発行を企画、37名の会員が
エッセイを寄稿した。
私は「わが故郷、わが友達」をテーマにして執筆した。
私は1945年終戦の年に生まれた終戦子だが、家族のことや恩師・同級生について述べた。
小学校は3クラスだったが、社会に出て活躍した仲間達がいた。
2003年秋、今は亡き佐伯さんが幹事となり同窓会を開催した。
私は不参加だが会費とエッセイのコピーを送った。
この年には地方選挙が行われ、同級生の島津さんが周南市長選挙に挑み大健闘した。
島津さんは中学2年生で東京に転校したのでNTTで活躍するも馴染みばかりではなく、
私のエッセイを読んで次回の選挙に向け気勢が盛り上がったという。
次は慶應義塾大学卒業後50年の大学入学式招待行事だ。
1970年卒業なので2020年が該当したが、コロナ禍なので行事は中止だった。
日吉の体育館が完成したのでお披露目に招待されたが参加出来なかった。
25周年では寄付できなかったので50周年には寄付したいと思い貯蓄に励み、
前年早々に寄付した。
年賀状やメールで残念な気持ちを記した人もいたが、再会の機会は来年以降になった。