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周南市立櫛浜小学校5~6年担当田内勲先生をしのぶ
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数日前、周南市立櫛浜小学校5,6年担任の田内勲先生の奥様から「喪中により新年の
ご挨拶を失礼します」とハガキを頂きました。
田内先生は私より12歳年上ですが、9月21日87歳で亡くなられました。
先生は大学を卒業して3年後の昭和32年4月に私達のクラス担任に就任されました。
悪戯少年の私は1年生から3年生まで担任の先生にいつも叱られました。
廊下で立たされることが多かったです。
4年生の担任の箱島先生からは普通扱いになり、少年朝日年鑑を購入して知識の吸収
に努めました。
先生の宿直当番時には泊まりに行き見回りの後、鉄工所の子息藤田さんの安来節の名
演技を見ることが出来ました。
休日には田布施のご実家に遊びに行ったことも思い出です。
田内先生を含む数人の先生の指導のもと、春秋に行われた市内の少年野球大会に出
場、6年生時松村投手、島津捕手のコンビで優勝、私は一塁手として参加して優秀選手
として表彰されました。
一番の思い出は6年生の学芸会で主役を演じたことです。
題名は正確には覚えていませんが「ひげのお医者さん」という題名でした。
白い服を着て耳鼻科の先生風に診察してソロで「私は医者よ、びりびりぶんけんぶんぶ
ん、私は医者よ、びりびりぶんけん、けれども私はびりびりぶんけんぶんぶんぶん、馬鹿
に付ける薬はないよ」と歌いました。
歌はドイツ民謡です。
3歳年下の妹もこのことを覚えていて2018年8月光簡保会館で行われた母親の7回
忌で当時場内が盛り上がっていたと話していました。
田内先生は自由を大切にして私達生徒を指導されたと思います。
長くお声を聴く機会はなかったですが、昨年夏インターネット電話帳で電話番号を見つけ
てお別れ後60年間経過して初めて電話をしましたが、耳が遠く声は聞こえなかったです
が、はがき一枚にびっしり書かれた丁寧な字は昔のイメージそのままでした。
私の個性を見出してコミカルな劇に登用されたことをありがたく思っています。
先生は自由を貴ぶ教育方針だったのか、小学校1年から3年次まで厳しく指導された先
生から大きく転換、勉強、スポーツに積極的に取り組む生徒になることが出来ました。
感謝の気持ちを心にしまい残りの人生を生きていきたいと思います。