笹木 正明(キャリアカウンセラー)- コラム「18歳で就職先を決め最後まで勤め上げた人」 - 専門家プロファイル

笹木 正明
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18歳で就職先を決め最後まで勤め上げた人

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2019-12-31 21:55

私は12月27日新幹線で徳山に帰郷した。29日周南市の実家で亡き父親の25回忌の法要に参加する為だった。

今回は私達兄弟妹3人、兄の息子2人、妹の次男家族4人が参加した。兄の息子は50歳48歳だが妻たちが来なかったので3人が川の字になり寝ることになった。2人とはそれぞれ色んな話をすることが出来た。

28日は保育園から中学校2年生まで一緒だった周南市の元市長で現市議の島津さんと昼食を共にすることになっていたが、小学校から高校まで一緒だった浅田さんにも声をかけ3人が喫茶店ウイーンに集まった。コーヒーを飲みながら2.5時間過ごすことが出来た。

島津さんとは1年数か月振り、浅田さんとは40年振りで、一緒に集まったのは初めてだった。3人の共通項は小学校5年6年生時、市内の少年野球大会に参加したことだった。夏休みは野球の練習に励んだのである。6年生の時、若葉公園で行われ大会で松村さんが投げ島津さんが捕手、見事優勝した。私は一塁手で優秀選手に選ばれた。

中学校に進むと私と浅田さんは野球部、島津さんは庭球部に入った。2人は陸上の選手に選ばれ400メートルリレーで市内、近隣の大会で優勝した。ダントツに早い松井さんのお陰だった。浅田さんは100メートル、私は400メートルの太華中学校代表だった。私は富田中学校の原田さん(日新製鋼)、太華中学校同級の末永さんに続きいつも3位だった。

話題は島津さんの市長、市議の活動だった。当初自分から希望して市長選所、に名乗り出たのではなく有力者の推薦で名乗り出たとのことだった。政治活動が性格に合ったのか今も現役、老人層を手堅く固めているようだ。グランドゴルフでは多くの仲間が出来ている。ゴルフも得意で、同級生の女性ゴルファーが事務局となり100名位を集めることが出来るので選挙に強い。誰がどこに住んでいるかの地図にも詳しい。

島津さんは太華中学2年生の時、お父上が日新製鋼の本社に異動になったため、世田谷の経堂にあった社宅に移り住んだ。転入後も成績が良く教育大駒場高校に進学、受験戦争に入るが無事勝利し一浪後東大文一に入学、卒業後NTT入職後出世街道を驀進、千代田支店長等を務めた。本を書いたり清水一行作小説の主人公として登場したこともある。

今は学校の先生の指導を受け参考にしているとのこと。校長として活躍しながら部下の多くを校長先生に育て上げた90歳を超えも元気な先生に秘訣を聞いたところ、麻雀をする先生で徹夜マージャンをやってもバテない人を登用したとのことだった。真面目で頭が良いだけではダメでバイタリティーが必要とのことだった。一般会社と同じで付き合い麻雀が必須と言いうことだ。

浅田さんとは40年前岡村先生、黒田校長が参加された、太華中学校野球部同窓会で会って以来だ。喫茶店に入り浅田さんの前に行くと堂々とした体形、落ち着いた雰囲気だった。最初の挨拶は「インターネットで活躍されていますね。」小学校同級生の女性から私がインターネットで活躍している事を聞き、時々見ているとのことだった。彼の話を聞いて同級生の間では私が井戸端会議の話題になることがあるのだと思った。来年は75歳になるので女性群が同窓会開催を計画しているとのこと。

島津さんが席に着くと昔話になった。浅田さんは中学校3年次に野球の能力を評価され、部長の岡村先生から下松工業入学を勧められた。私も声をかけられ下松工業のI先生を太華中で紹介された。当時電気科の入学試験は県内トップレベルの成績、私は工業化学を志望した。私のクラスには電気科を受け不合格になり第二志望で入学した人もいた。私は幸い電気科に合格したと岡村先生から聞いた。入学後、彼は春の練習に参加すると野球部長から「しっかり野球に励めば地元大手の化学会社に入社出来る」と説明を受けしめしめとにっこりしたという。私はその話を聞いて野球に対する気持ちは冷めた。勉強が好きで下松市に住所を移転してまで入学した。入学早々一人で進学の勉強を始めた。浅田さんは下松工業に入学して活躍した。彼は2年生時の秋、下関商業のエース池永さんから長打を撃ち勝負強さを発揮した。池永さんとは8打数4安打とのことだった。当然のことながら県外の大学、社会人野球チームから誘いを受けた。ここからが浅田さんの彼らしいところだった。いくつか誘いを受けたが家族の反対で地元の化学会社に入社して定年まで働いた。27歳で結婚したが収入が多すぎて市営住宅に入居できずマイホームを作った。変な野心を持たず社会人野球に打ち込んだのだ。勤めながら副業に従事する人もいた、転職して成功した人もいたが大変な努力を要したことは言うまでもない。会社を辞め、離婚して酒を飲みすぎ亡くなった人もいた。浅田さんは冷めた目で社会を見て、自分の能力を見つめて動かなかった。少しでも可能性が有れば挑戦する人も多いが、可能性が有っても現状に踏みとどまる人は少ない。指導性もあるので今は町内の役員や男性料理教室のリーダーを務めている。材料買い出し、レシピ作成等雑務を引き受けて皆のお世話をしている。どこの社会でも地味な下働きをする人は歓迎される。浅田さんの勤務した会社は島津市議も環境問題に力を入れた会社として市議会で高く評価、また新入社員の定着率が高くホワイト企業として応募者が多いとのことだ。自分で平凡な人生を歩んだと淡々と話していたが、素晴らしいと思う次第である。話をしても丁寧で、はったりや自慢話をしないのだ。


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