判断の基準は「正しさ」
かつて、会社で働き組織に属していた私ですが
人と人との、あるいは部署と部署との
利害関係が衝突し、
同じ会社の仲間なのに、
「どうしてこうも争わなければいけないのか?」
と、不思議に思い、
時に悲しくなることもありました。
確かに、仕事に学校のテストのような「正解」はなく、
未来は不確実で複雑ですから「結論」を出すことに
誰もが抵抗があり、
とても大変なことはわかっています。
でも、案外、
自分たちでも何かエゴに絡めとられ、
自分のこと、あるいは自分の部署のことしか考えていない
ということは薄々感じていることが多いとも思います。
京セラの創業者稲盛和夫氏に、こんな言葉があります。
「部門間でもめごとがあり
複雑怪奇な様相を呈している場合も、
もつれた糸をたぐるように解きほぐしていくと、
その原因はたとえば必要な連絡を怠ったとか、
たったひと言の感謝の言葉が足りなかったなど、
単純で瑣末な ―そして何より利己的な-
理由によることが多いもの。
そのようなことをふまえたうえで、
人間として何が正しいのか という本質に
立ち返って結論を出していくので、
私の判断が 結果として「大岡裁き」になる。」*1
「人間として何が正しいのか」
というあまりにもシンプルな判断基準が
仕事をする上で、役に立つことがあります。
専門知識を背負い込み、その知識を使うことが
専門家としての職務だと思い込むと
こういったあまりにも単純な「哲学」が
忘れられてしまうようです。
多くの経営者が、哲学的なことを語るのは
やはり経営上の判断基準をそこに求め、
そして、実践しきた歴史があるからだと思います。
「人間として何が正しいのか」
時に、思い出したい言葉です。
EARTHSHIP CONSULTING
*1
『生き方 人間として一番大切なこと』(サンマーク出版)より