- 曽我 武史
- TKC BODY DESIGN アスレティックトレーナー(鍼灸マッサージ師)
- 東京都
- あん摩マッサージ指圧師
2004年のアテネオリンピックの翌年からまた次の北京オリンピックまで4年間の選手サポートが始まりました。
実はこの4年間と云いつつも毎回が審査と評価の対象だと私は思って活動していました。
ミズノにいた6年間も同じでした。
一年一年。
毎回毎回の選手サポートを一生懸命することが続けば
きっと夢のオリンピックに行くことができると
そう信じて活動していました。
このアテネ以降の間に、私は少人数の選手とともにヨーロッパの試合を転戦する経験をしました。
この時初めて陸上競技のトップアスリート(世界レベル:日本以外の選手)の実情を目の当りにしました。
これがプロアスリート何だと思いました。
大会は全てエントリーフィーや成績により報酬が支払われます。
この時、重要なのがエージェントです。
このエージェントが選手たちが出場できる試合を取ってきたり交渉したりしてくれます。
当然メダリストとなればエントリー(出場するだけで)報酬が支払われます。
当然移動の費用から宿泊まですべてカバーされていますので、世界のトップクラスの選手はこの転戦していくことで生計を立てています。
もちろんスポンサーがついている場合には、別の報酬も加算されます。
この時重要なのがオリンピックでのメダリストや世界陸上のメダリストなどはハクがつきますので容易に希望する大会に出場することが可能となります。
日本には、ない取り組みですね。
招待選手枠というのはありますが報酬はありませんね。
まぁ~そんなこともこの転戦を経験して知ることができました。
そして海外のトレーナーとの交流も生まれます。
いろんなことを知りました。
私にとって拠点は日本です。しかし、いつかこんな世界レベルの選手たちの専属トレーナーになって海外を転戦できたら面白いだろうな。なんて思いながらいろんな国に行きました。
イタリア、フランス、ベルギー、オランダ、フィンランドなど
毎年いく日本代表チームのトレーナー活動とはまた違った面白さがありました。
。
選手のサポートに関わることはほとんど選手と一緒にやることになりますが、選手は試合に来ているので私ができる準備などは先回りして活動するようにしていました。
基本的には、選手がやりやすいように現地で交渉したり準備を整えたりすることです。
現地には選手と私しかいません。
選手が語学ができる場合は、自分のことだけをすればいいのですが
そうもいかない場合もありますので。。。そんなときは、度胸と根性で乗り切ります頼れるのは自分行動のみですから。まぁ~何か現地で問題が起きれば、全て自分で現地対応をしなくてはいけないで良い意味で度胸は付きましたね。こういった時の対応は、きっとあの2000年のアメリカ生活で養われたものが役立っていたんだと思いますね。
そして、2005年は、ヘルシンキ世界陸上に帯同しました。
実は、世界陸上の第一回目はこのフィンランドヘルシンキ大会だったんです。
これもまた偶然でした。
この年のフィンランドは、例年にはない異常気象で涼しいというよりは寒いくらいでした。
事前情報とは全くちがう環境下で、雨や風が激しく非常に荒れ狂った大会でした。
そして、またまた、為末選手です。ここでも快挙を達成しました。
そうなんです、この大会で2度目の世界3位になったんです!
あのゴールした瞬間に転がり込んでもぎ取った銅メダル。
あの環境で勝ち取った銅メダルは我々日本選手団に勇気と希望を与えてくれました。
そして、2006年ドーハでのアジア大会
オイルマネーで成り立っている国での大会でした。ここでも異常気象で12月なのに大雨がふり、建物の天井は崩れ落ちたり、地面は水浸しだtったりしていました。いろいろ聴いてみるともともと雨が降る時期ではなかったので地球全体ががおかしくなっていたんだなと思ったことを思い出します。
そして、2007年
私は、ミズノ株式会社を退社し、自らプロの世界に飛び出しました。
2007年から2012年(現役アスリートを引退する)まで、為末大選手のパーソナルトレーナーとして活動しました。
そして、この年は、日本(大阪)で世界陸上が開催されました(実は、1991年の東京で世界陸上が開催されていました。)このときは、翌年が北京オリンピックということもあり、代表選手も気合が入っていいました。そして、この機を境に陸上競技をメジャーにという空気が流れメディアもかなり動いていました。そんな中、我々は淡々と選手の状況を常に把握できるように動き回っていました。
暑い夏の大阪。いろんな事を想定してサポート体制を作りました。過去にないほどの日本選手団の数でした。トレーナーが4名にドクター2名で70名弱の選手をサポートしていました。
結果的には、選手の成績はなかなか思うようには行きませんでした。
世界に通用するレベルにいた選手らがことごとく予選敗退でした。メディアも驚くような結果となってしまいました。
これには、我々メディカルチームも困りました。現地では、常に緊迫した状況で毎日が動いていました。
国内の大会だけに選手をサポートしてくれる人も増えていました。しかし、我々は常に全体を把握しながらサポートしなくてはいけません。
4名のトレーナーが選手たち約70名近い選手を把握するように全力で活動していました。
とても暑い大阪世界陸上でした。この大会での反省を翌年のオリンピックでは払拭できるように準備が必要でした。メディカルチームの課題は山盛りでした。この反省を活かして関係者との連携をさらに取るようになりました。
そして。。。
つづく
TKC BODY DESIGN
曽我武史
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